「愛」と「Love」は違います。少なくともわたしはそう感じるしそうとらえています。どういうことかと言うと、言語が違うからです。何を今更当たり前のことを言っているんだ、とそう早まりなさるな。ちゃんと理由も用意してあります。
言語と言うのは文化そのものです。これはいつだったか前にもここで話したことがあります。その国の生活だとか習慣だとか、要するに“身から出た”ものが言語として発達していますから、それぞれの地域に特有の言語が発達します。
そして、その言語を外の人たちが理解するために「翻訳」というのが現れます。ほかの地域の言語を自分たちの言語に置き換えるわけです。これにはやっぱり無理が生じるんですよね。自分たちが持っている価値観では言い表せないものが出てくる。そもそも生活習慣も価値観も違う地域の人々が使う言語を自分たちが使う言語に置き換えようという発想自体、無理があるのです。
明治期にたくさんの新しい日本語が作られました。外国語を日本語に翻訳する形で作られたわけですが、その大体が漢字二文字で形成されています。「衛生」「社会」「存在」「自然」「権利」「自由」「憲法」「個人」「芸術」「経済」などがそれに当たります。この中には明治以前から日本語の中で使われていたものもありますが、少し違った意味で使われていたようです。そして「愛」も実はこの時期に生まれた新しい日本語です。
「愛」も元々は仏教用語として使われていましたが、明治期に入り西洋的な「Love」の意味として使われるようになったそうです。道理で肌になじまないわけですね。しかし「Love」やほかの西洋語の訳語として使用されてきた「愛」でさえ、「Love」とは意味合いが違います。肌感覚と言いましょうか、が明らかに違いますね。
先にも話した通り、生活習慣も価値観も違うわけですから使っていくうちに、その地域で使いやすいようにアレンジしていくものです。変化して根付くのですね。ここに言語を学ぶ面白さがあると思います。辞書ではわかりづらいのですが、現場に行くとより面白みがあります。
こうしてみると、やっぱり母語をきちんと使う、ということはすごく重要なんですよね。いつもと同じところに、行き着きました。
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