1/27/2016

ラバナーダス

現代、小学校で百人一首を学校で習い、中学校で漢文を習い始め、高校で「古典」の授業を受けます。昔の人からさまざまなことを学んで、すごいなぁ、偉いなぁ、思っているかいないか別として、少なからず勉強になることがあります。

わたしは、昔の人の身体感覚はすごいなぁ、と感心するようなところがあります。より時代の近い明治とか江戸とか、もっと近ければ昭和初期生まれ(わたしは平成生まれですからね)の人の身体感覚に感心したりしています。運動とか、そういうところだけじゃなくね。

ちと脇道にそれましたが、その、私達が「すごいなぁ」としている人々もきっと「昔の人はすごいなぁ」と思っていたことでしょう。江戸時代の人は、東山文化をすごいなぁと思ったかもしれないし、室町の人は清少納言や紫式部をすごいなぁと思ったかもしれません。聖徳太子の時代でも、お隣隋の歴史はすごいなぁと思っていたはずです。

昔の人が偉いとか今の人が優れてるとか、そういうことではありませんね。でも、「1000年前」が「現在」に脈々とつながっている、という事実は事実っぽく感じられません。確かにつながっているんだろうけれど。だから、きっとこれからもなんとか続いていって「昔の人はすごいなぁ」って未来の人も言うんだと思います。それでいいと思います。ちょっと楽天的すぎるかな。

京都の街を歩いた感想でした。

1/24/2016

ポテごまクッキー

今年は夏季オリンピックイヤーです。今大会はリオデジャネイロでの開催。2年前のフットボールワールドカップに続きオリンピックの招致にも成功。デモが起きたり、犯罪が絶えなかったり、さまざまな報道がされていますが、当のブラジルはいたって賑やか。素敵な大会にして欲しいです。 

オリンピックの話題で今最もホットなのはフットボールかもしれません。現在カタールで23歳以下の若武者達が本大会出場を目指し、厳しい戦いを続けています。 

日本のフットボールの成長は本当に目を見張るものがあります。100年以上の歴史を持つヨーロッパや南米の国々と対等に戦うところまでこようとしています。勤勉な日本人の良いところがここまでの急成長を現実のものにしました。 

1998年フランスワールドカップの頃は、「世界の舞台に立つこと」が目標でした。2年前のワールドカップでは「自分たちのスタイルで世界で勝つこと」を目標にしていました。たった16年でここまで成長した国は他にないでしょう。 

そして、現在戦っている若い世代の選手たちを見ていても、明らかに以前の世代の選手達とメンタリティが違います。彼らは日本代表が出ていないワールドカップは見たことがありません。彼ら自身も自分たちは世界で活躍しないといけないと思っているはずです。「当たり前」レベルが以前とは全く違います。 

先日のイラン戦、内容はともかくあのような厳しい試合をものにする力、と言うよりも「勝ち方」みたいなものの影を感じました。「サッカー」から「フットボール」にほんのちょっと近づいているのかな、と思えたのが嬉しかったです。 

選手の成長には、「見る目」の成長が欠かせません。 環境なんです。



1/22/2016

パォン・デ・ロー

暖冬は何処へやら、この1週間ほどはすっかり空気が入れ替わり本格的な冬模様。初場所の大熱戦などどこ吹く風、明日からは大寒波が列島に押し寄せるらしく、公共交通機関の関係者は憂鬱この上ないでしょう。

今は二十四節気の大寒。一年で最も寒さが厳しい時期。そりゃ寒いわけですよねえ。でも、この寒さをそのまま「寒さ」としてきちんと身をもって受け入れようと思っています。そらしたり、ごまかしたりせずにね。

冬は「寒さ」を連想させる季節です。それと同時に「寂しさ」「悲しさ」を連想させます。もちろん日本人の感覚では、ということかもしれません。そして、この「寒さ」「寂しさ」「悲しさ」を知っている人、持っている人がわたしは好きです。

本当に絶望してしまうような「寒さ」「寂しさ」「悲しさ」を知らないからそんなことを言えるんだ、と言われればそれまでかもしれません。人によっては死んだほうがマシだって思うような場合もあるんだものね。でも、そういうことも考えた上で、「寒さ」「寂しさ」「悲しさ」は人生を豊かにすると思います。

なにも、「寒さ」「寂しさ」「悲しさ」に自ら向かっていけ、と言っているわけではないんです。道中で「寒さ」「寂しさ」「悲しさ」が現れたら、それをそのまま受け入れるほうがいい、といった具合です。「苦労」と同じようなことかもしれません。

「耐雪梅花麗」みたいな、そんなかっこいいことじゃないかもしれません。寒かった日のお風呂は、気持ちいいよね。

1/20/2016

プチトリフ

ここで何度か書いていることなのですが、こうして考えたことを書いていると、最初に思い描いていた結論というか、オチ、それ以前にズレて行って思わぬところに着地することがよくあります。

こないだ書いた「知識は川のようだ云々」から始まる記事は、最初は「セレンディピティ」について書こうと思っていました。大井川の幾筋もの流れを見て、ふと「セレンディピティ」を思いついたのです。

昨日の「腕立て伏せ20回」の記事も、本当は「もう少しは意外と遠い」ということを書こうとしていました。地図で見ると「もう少しだな」と思うのだけれど、行ってみると「まだ着かない」なんてことがあります。これを多く経験すればなんとなく正しい距離感覚を身につけることができるのかもしれません。

そして、今書きながら思ったんだけれど、「まだ着かない」「キツいなあ」みたいな感覚はあとひと踏ん張りすればその場所に着くようなところで感じます。つまり、「キツいなあ」は「あとひと踏ん張り」の目印なのかもしれませんね。

こうやって、大体は予測していないところに行き着きます。

1/19/2016

アロース・ドーセ

腕立て伏せを20回やる、と決めてやりはじめると、15回くらいでキツくなってきます。1500m走る、と決めて走りはじめると、1200mくらいでキツくなってきます。2時間勉強するとか、10時間労働するとか、そういうことも、終わりが見えてきた辺りで、キツくなってきます。

人間は、決めたところにちょうどよくなるように力を使うから、決めたところまでしかやらない、と言うふうに言えるかもしれません。

でもね、わたしはこれ、人間は決めたところまでいける、決めたことはできるんだと思っています。無理そうに思えることでも、やってみるとちゃんとそこまで行けるように力を使うんです。

でも、初めては結構失敗することが多いです。初めてだからどこまで力を使えばいいか分からないし、どこで力を出せばいいか予想しづらい。予想しても大体その通りには行きませんしね。それが、それでもやっていると、どうしてどうしてできるようになるんです。

最初から腕立て伏せ20回できなくても、やっていくうちに筋力がつくし力の配分も分かってくる。1500mを早く走れなくても、やっていくうちにスタミナがついてペース配分も分かるようになります。

思っているより、人間はできます。

それと、注意したいのはね、「腕立て伏せ20回」は、「腕立て伏せ20回」の人を作るってことです。

ナッティバーチョコレート

知識とは、川のようである。はじめは姿も見えぬようなしずくや湧き水が、心細い一筋の流れになり、他の幾筋かの流れと合わさりながら勢いと幅を持つようになる。その川もまた流れを穏やかにしながら、ほかの川を取り込み取り込まれ、さも落ち着いた様子の大きな河となり、やがて雄大なる大洋へと注がれる。

と、まあこういうふうなことをわたしが書くと、随分クサい。これを兼好法師が書いたとしたらどうでしょうか。彼がどんな風景を見ていたのか、当時の川の様子を想像したりするかもしれません。シェイクスピアが書いたらどうでしょうか。イギリスの川はどんな景色なのか、この原文にはどんな意味が込められているのか、考えたりするのかもしれません。

何を言ったのか、というのはさして大切ではないかもしれません。人は言ったその人を見て、その言葉を受け取っているんじゃないでしょうか。つまり、「何を言ったのか」ではなく「誰が言ったか」なんです。

もっというと、その人が「何をやったか」です。

ここまで書いて、和歌集の「よみ人知らず」の和歌がいいのはどうしてだろうと考えました。詩や句は、人はそれほど関係ないのかもしれません。雑誌やポスターのコピーも、言葉が先に来ます。これを作った人はきっとこんな人だろうなぁ、というのはあるかもしれませんが。

格言じみたこととか金言みたいなものこそ、人が前にくるんでしょう。普段の会話もどちらかといえば、人が前に来るものだとおもいます。

それらしいことは誰でも言えるから、ってことでもあるよね。

1/14/2016

パスティス・デ・ナタ

博多華丸大吉の華丸が好きです。ネタとかトークが面白いとか、そういったことではないんですが、見ていて気持ちがいいです。そんなにテレビを見ないので、偏った見かたになっているんだと思うのですが、あの魅力はなんだろうかと考えたんです。

またTwitterの話しになってしまうんですが、普段からTwitterなんかのSNSを見ていると、「○⭕が嫌い」「○⭕本当無理」「○⭕クソ」見ることあります(わたしがそういう見方をしているのでしょうか)。特に芸能人に大して、みんな本当に好き勝手言います。

芸能人がかわいそう、なんてことが言いたいんじゃなくて、「嫌なもの」をわざわざ主張しなくてもいいと思うのです。それは、「無関心」でいい。「嫌い」に対して「嫌い」と言ったところで「好き」にはならないですから。そして、あの人が「嫌い」でもこの人は「好き」だったりしますから。「好き」な人に任せておけばいいんです。

華丸の魅力はそこかも知れません。わたしの見る狭い範囲の中では、「好き」の話しをしている姿が多いです。食事とか、ホークスとか。それが楽しそうで魅力的に見えるんだと思います。

「好きじゃないな〜」はあっていいんです。あって当たり前です。ただ、それを言いふらす必要はないし、いつまでも「好きじゃないな〜」でいる必要もありません。さっさと新しい「好き」を見つけたほうがいい。そして、喜ばしいことに人それぞれ「嫌い」「好き」は違いますから、意見を聞いたところでどうにもならないんです。

自分は「好き」を見つけて、「嫌い」を「無関心」にできているか、思い返しています。まだ訓練が必要なようです。

1/10/2016

霜だたみ

わたしはTwitterを日頃からよく眺めています。スマートフォンをいじりだしたら、必ずTwitterを見ます。多分それぞれにスマートフォンをいじる時のルーティンワークみたいなものがあって、もはや自然に順番にアプリを開いていると思います。

特にわたしがハマったTwitterは実に良く出来たサービスだなぁ、と最近ふと改めて感心してしまいました。

人というものは、誰でも自尊心だとか、虚栄心だとか、そういうものを持っているようです。そして、物事を主観でしか見ることができませんから、どうしても自分と違った見かたや意見を受け入れにくかったりするみたいです。

「どうして自分はこんなに頑張っているのに、周りはそうじゃないんだ」「どうして自分はこんなに素敵なのに見てくれないんだ」ちょっと揉め事が起こったりするときの内容はだいたいこんな感じだったりします。「どうして自分と違うんだ」が、散発しています。

そんなことを考えながらTwitterを眺めていると、そうか、それを発信できる場なんですね。パパっと打ち込んでピっと発信。自分を省みつつ、いろんな人の「見て見てー」を見ています。

大多数の人間はセコいから、周りより頭1つ分だけ出ていたいと考えます。頭から下は周りと同じがいいんです。飛び出しすぎちゃうのは怖いんです。Twitterはその醜態を露呈できてしまう場でもあると思います。面と向かっては言えないようなことも、フィルターがTwitter用に薄く粗くなるから発信できるんですね。

すべての根源は「わたしを見て病」です。みんな「わたしを見て病」だとすると、おそらく「わたし」は大して見られていないよね。それに気づいてからというもの、結構愉しいです。

1/06/2016

アバデ・デ・プリスコス

友達の多い人なんかは特にそうなのかもしれませんが、人間は誰しも会う人会う人によって自分自身を演じ分けているんだと思います。そうじゃない人も中にはいると思います。ビッグスターだとか。

自殺してしまう子に、「自分自身のキャラクターを演じるのに疲れた」というふうに遺書に書いている子が、テレビの報道では割りと多くいるように思えます。自殺してしまうほど思いつめるというのは、大変なことだしあってはいけません。ただ、「演じる」という1点に関しては、そういうもんなんだよ。と誰かが教えてあげないといけないんです。

会社での自分、家庭での自分、友達といる時の自分、一人の時の自分、大きく分けてもこれだけあるし、さらに言えばもっと細かく「自分」は分けられます。その時その時によって演じ分けるものなのです。

つまり、「自分」なんて無いんだ、ですよ。自分という意識にあまり縛られないほうがいいのかもしれません。唯一「自分」だと言えるものは「身体」ですから。しかも、その「身体」だって常に変化しています。

ちょっとだけ、ややこしいんだけどね。でも、本当だと思ってます。

1/04/2016

マルセイバターサンド

去年の年末に話は遡るのですが、「BS世界のドキュメンタリー」というNHKBS1で放送されている番組で「ウォルト・ディズニー」が全4回放送されました。一回1時間。ミッキーマウスの誕生から、ウォルトの死までを描いたアメリカのドキュメンタリーです。

私自身は何度かここでも触れている通り、ディズニーが大好きです。故にウォルトやディズニー社の歴史もそれなりには知っていました。ただ、ウォルトのパーソナルな部分はほとんど知りませんでした。彼が天才であることは疑いようのない事実ですが、同時に、自分の欲望に対してほとんど子ども同然に純粋だったように感じました。

現在公開中の「スター・ウォーズ」シリーズや、「ハリー・ポッター」シリーズ、映画のほかにも音楽では「エルヴィス・プレスリー」「フランク・シナトラ」「ビートルズ」「マイケル・ジャクソン」、エンターテインメント以外でも「Apple」社や「Microsoft」社「Facebook」社、その時代の世界を引っ張っていくような様々な人たち、「コンテンツ」があります。

こういった「コンテンツ」は多分、「伝えたい相手」を定めていないと思います。つまり「ターゲット」とか「ビジネス戦略」みたいなことじゃなくなっちゃってる。基本的には。どちらかというと「自分自身に周りがついてくる」という雰囲気がありますよね。それと、自分が本当に面白いと思うことをやって、「こんなに面白いことがあります。」と言っているだけな様にも見えます。もちろんそんなことはないんだけれどね。

ウォルト・ディズニーからも、こういった類の「力」を強烈に感じます。自分が面白いと思ったことをとことんやる。規模は関係ない。恐ろしいほどの情熱と執着心です。きっと近くにいた人は火傷をするほどの熱気を感じていたと思います。歴史を作る人はこういう人なんだなあ、と自分の小ささに情けなくなるのでした。

「好き」をやるには、「覚悟」がいります。でも、「ターゲット」とかはやらない姿、魅力的だし、ヒントだよね。

1/03/2016

パナジェッテ

私の祖母は明日で83歳の誕生日を迎えます。よく自分が若かった頃の話を聞かせてくれるのですが、本当に面白い。祖母の母親、私にとっての曾祖母は明治生まれの人です。話を聞いていると、やっぱり明治の人はある意味では今の人よりも国際的だなあ、と思わされます。

遠くて情報が少ないほうが、かえって本質をとらえていることは多くあるように思います。とんでもない間違いもあるでしょうが、想像を掻き立てられる余地がある分、知ろうとする意欲も高まるのです。それで、ほんの小さな雑誌の写真とかそういうところからも情報を得ようとする。案外そんなところからわかることは多いのです。

反対に、近いということで知った気になるという危険性があるように思います。これは知らないよりも恐ろしいことになる場合もあります。偉大なる古代ギリシャの哲学者、ソクラテスの説いた「無知の知」は現代でも古びることなく通用するとても大切な真理です。

それともう一つ、話を聞いていて思うことは、明治の人たちの本物を取り入れようとする姿勢とそれをきちんと評価する態度は現代人よりはるかに勝っています。とてもおしゃれですし、江戸のイキもしっかり残っているかっこよさもあります。私の曾祖母も演劇が好きだったらしく足しげく浅草に通っていたそうです。それは祖母に受け継がれ、母、そして私まで脈々と受け継が出ているようです。

本質を見ようとすること、本物のをきちんと評価すること、曾祖母と祖母から教えてもらった大切な真理です。