6/30/2015

あおによし

やりたいことがある。しかし、安定した収入が得られるかわからない。世間の目もある。失敗したら惨めな思いをするかもしれない。でもね、リスクを冒さないと、大きな成功はつかめません。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」です。昔の人は知っています。ちゃんと言葉として実感として残してくれています。ことわざを勉強することは、生きることにとても役に立つのです。

これがいいかな、やっぱりこれもいいな、あーやめたこっちにしよう。こんなことをしていてはなにも身になりません。一定期間そのことをやってみる必要があります。そうすると、おのずと見えてくるものがあるのです。「石の上にも三年」です。「転がる石に苔は生えぬ」なんてことわざもあります。苔はお金を意味していたりするようです。

思い描く自分の姿とのギャップに苦しむことがあるかもしれません。なかなか思い通りにいかないこともあります。それでもこつこつ続けていれば形になるし、いつかどこかしらにたどり着くものです。着実に一歩一歩、積み重ねることが大切です。「千里の道も一歩から」です。それに「ちりも積もれば山となる」のです。

なんといっても、日々幸せでありたいものです。笑顔でいたいものです。笑顔の人の周りには、笑顔の人が集まるし、暖かい雰囲気が出来上がっていくものです。楽しそうにニコニコ笑っている人はみんな大好きですから。しぜんと心もほだされて、優しい気持ちになるんですよね。「笑う門には福来る」、できるだけ笑顔でいたいものですね。

6/29/2015

マドレーヌ

今日、時間がゆっくりとれたから久しぶりに自転車をいそいそとこぎ、大きな川の流れる土手でのんびり日光浴をしてきました。いつもお決まりの、きれいに草が刈りそろえられた場所で、寝ころびながら読書します。考えたりもします。穏やかな気分で午後を過ごせました。

ふと河を眺めると、緩やかながら確かに流れていました。何をいまさらなどと言いなさんな、そこは意識したって平坦で勾配などないように感じるほどのところです。もちろん水は高いところから低いところへと流れていきます。そう、確かにそこにも勾配はあるんです。

水は流れ、行きつく先は海。わたしのお気に入りの場所は、河口から20㎞ほど上流の場所。もうほとんど川の流れは緩やかでゆらゆらと水面は落ち着いています。もっともっと上流へ上っていけば、勾配も急で流れが激しく、大きな岩がゴロゴロとしていて、荒々しい場所もあります。それよりさらに上って源流までたどり着くと、岩の間からちょろちょろと染み出る、頼りないほどかすかな水の筋です。これが源です。

なんだかアイディアとか人間そのものに似ているように思います。最初は本当にかすかにちいさく生まれてきます。それを大切に育んでいくと、いろんな“大きな岩”にぶつかたり、せき止められて捻じ曲げられたりします。それでも仲間と“合流”しながら流れていると、やがて“川幅”も広くなって(太るってことじゃないですよ)、穏やかにしかししっかりとした川の流れになり、最後は“大海原”に出るのです。

今自分はどのあたりかなあ。きっとまだまだ流れの激しい所だな。それと、書いていて気が付いたのだけれど、美空ひばりさんの名曲「川の流れのように」ってこういうことだったのかしらん。

八ッ橋

いつもは録画して後から見るのですが、今日は放送に合わせて「ヨルタモリ」を観ました。ゲストが糸井さんだったからね。それに、常連さんは岩手でジャズバーを営んでいる吉原さんでした。たまたま使われたところがそうだったのか、いやいや、今日の吉原さんはいつも以上に上機嫌でした。

今日の放送の中で糸井さんが、
食べ物を人にごちそうするっていうのは「愛」じゃなくて「快」だよね。これは「愛」という表現が当てはまるものだな、と思えるものに「愛」という言葉をポンっと置けばいい。先に、「これは愛!」とかって決めつけるものではないよね。
ってお話しされてたんです。

他にもね、
本当の「愛」は無償なんだよ。
って。わたしにはまだまだ理解できませんでした。こういうことかな、なんて考えてもみたけどまだまだ全然そんなところまで見えません。つぼみにさえなっていないのに、熟した実までは到底実感できませんね。でも、こういうことが実感とあいまってサラッと出てくる「大人」なりたいです。吉原さん(タモリさん)なんてさっきまで「ママの尿酸値飲みたいね~」なんて、わけのわからない下ネタを言っていたのに、ものすごく深みのある話しをこともなげにするんですから。本当に素敵です。

「ヨルタモリ」は本当にくだらないし、本当にチャーミングだからわたしは好きです。宮沢りえさんも毎回綺麗だし、お召し物も素敵です。能町みね子さんの存在感もたまりません。他の男性常連3名様も、番組にリズムを加える芸達者な方たちです。何より、日曜日の夜にフフっと笑えて「明日からまた頑張るか」となる番組がやっていることがうれしい。わたしの場合大体はのちに時間のある時に見るのですがね。その事実がうれしいです。

なんだか「ヨルタモリ」をべた褒めして終わっちゃたみたい。まあいいか。I Love You Tokyo !

6/28/2015

ブラウニー

 意見の多様性について触れた記事を以前書いたが、なぜ意見の多様性が認められなければいけないのか、今一度強く考える話題が今、世の中をにぎわしている。

「表現の自由」というとてもとても大切な権利があるんだ。それは日本国憲法にもちゃんと載っている。わたしが今きちんと発言出来ているのも、ある意味では「表現の自由」が権利として与えられているからなんだ。それを強大な権力によって規制されるとどうなるか。これは、絶対に許されてはいけないことなんだよ。

あるテレビ局の平日22:00台に放送されているニュース番組でも、「表現の自由」について、生放送で強く語った人がいる。力を持った人から規制を求められている、と。それに負けてしまってはいけない、と。強いものが、弱いものの意見を聞かなくなった世の中は、はたしていいものか。幸せか。

「世界報道自由度ランキング」で、日本は61位だ。どのように調査して出された評価なのかわからないので一概には言えないが、わたしたちは決して「表現の自由」が十分保障された世の中には生きていない、ということだ。つまり、“強きもの”からの規制にあっているということだ。「特定秘密保護法」も忘れてはいけない。本当にいま「知る権利」「報道する権利」が守られているのか、いささか不安である。

大きな力で、小さな意見がねじ伏せられてはいけない。「お友達の意見もきちんと聞きましょうね」というのは、当たり前のことだし、必要不可欠なことなんだ。意見が違っても、その意見が気に食わなくても、意見そのものを言える場をなくしてしまってはいけない。そこは絶対に死守しなければいけないんだ。

6/26/2015

芋けんぴ

暇があれば本屋さんには行ってしまう私は、雨が降っていた今日も行ってきました。2時間くらいいてしまう日もあります。なんというか、あの知的な空間というか、人類の知性の粋を集めた空間にいるような心地がするのが好きなのかもしれません。悲しいかな、わたしの知性はちっとも追いついてこないのですが。

わたしは本屋さんだけでなく、ネットショッピングでも本を買います。具体的に言えば、amazonも利用します。便利です。でも、本屋さんに行って直接買う方が好きです。どうしても見つからなかったときだけamazonを使うのです。電子書籍も何度か試みましたが、今のところなんだかしっくりきていません。アナログ人間のわたしは、自ら出向いて直接触れて温度を感じてから買う方が、性に合っているのかもしれません。今のところはね。

洋服や食材までネットで買えるようになりました。本当に素晴らしいことですし、歓迎すべき発展です。これからは暮らし方や住み方もどんどん変わっていくでしょう。そして、不思議と、「あ、昔これと似たようなものあったな」が、形を少しだけ変えて再登場してくることが頻繁に起こると思います。

手に入れやすい世の中になったからこそ、「自ら出向いて直接触れて温度を感じてから買う」が一番満足する買い物なのかもしれない、とみんなうすうす感ずいてきているのではないでしょうか。そのきっかけづくりや、お手伝いがインターネット上でできればいいな。作った人の顔を見て、直接買えるのが一番いいもの。「こういう人に勝ってもらえた、うれしいな」「こういう人が作ってくれたものだ、ありがたいな」がどんどん増えると幸せかもしれませんね。どんなものの奥にも、生身の人がいます。

ダックワーズ

よく耳にする質問で、異性のどこを最初に見るか、というのがあります。これはきっと対面している条件が暗黙の了解として含まれていると思いますから、大体顔が多いと思います(それ以外というのは正直あまり想像できませんが)。手や脚なんて意見もあります。ちなみにわたしも多数派の顔です。人の印象は、ほぼ100%顔で決まるのではないでしょうか。そこが基準点になっていると思います。

このままいくと、「今回は顔だとか印象についての話しだな」となるところですが、違います。“印象”は少し近いかな。歩き方に関するお話です。

以前わたしはひどいO脚だと書きました。O脚ですから歩き方も少し外に引っ張られているようになります。少なくともわたしはそう感じます。それでね、そんなわたしがいつも見とれてしまう歩き方をする人たちがいるのです。

バレリーナ。現役でやっている人も以前やっていた人も、バレリーナはみな同じような歩き方をするのです。外股でスッスッといいましょうか、サッサッといいましょうか。背筋が伸びて骨盤も前傾しているから、姿勢が美しいんですよね。エレガントです。

わたしは、異性でも同性でもそうなのですが、必ず姿勢や歩き方、立ち方を見てしまいます。最初にではありませんがね。街中を歩いていても、気になりますし、ことバレリーナ特有の歩き方わする人がいると、得した気分になります。人ぞれぞれ、最初に見ずとも気になるところはあるんですよね。

6/24/2015

かりんとう

お仕事の先にあるものって、人の笑顔なんじゃないかなあ。そういう基準で働けたらいいなあ。

会社がになったとき、「やるぞっ」となったときにきっと、世のため人のため、父ちゃん母ちゃんのため、嫁さん子どものため、友達のため、役に立つことをしようって思いがあったんだと思うんです。それが目的だったんだと思うんですよね。

やっぱりわたしは「ありがとう」がうれしい。もちろんお給料ももらえないと食っていけないから、そちらも大事。そのバランスを上手にとって暮らしていけたらいいと思います。人の笑顔を想像しながらお仕事できたらいいと思います。

人間はね、本来人に褒めてもらうために生きている生物かもしれない。それくらい、褒められたり感謝されたりすることが好きです。幸せになります。自分がしたことが、世のため人のためになったとおもえたら、その日はいい日になります。それがお給料としてももらえれば、本当に幸せです。「自分はちゃんと人の役に立っているんだ」と形としても思えますから。

でもこれって、仕事に限った話じゃないんだよね。くらしそのものが、そうなっていけばうれしい。好きな人が幸せそうだったら、やっぱりみんなうれしいものね。

パンナコッタ

以前思っていたことと今思っていることが違っていても、何ら問題はない。「私」の部分での話にはなりますがね。主張していたことが依然と違っている、正反対のことを今は言っているようなことになっても、決して悪いことではありませんし、それについて責められることでもないです。

人間の細胞は日々生まれ変わっています。お肌だったら20歳代で約28日周期、4か月もあれば血液も筋組織も生まれ変わります。そして、約6年周期でほぼすべての細胞なんかが生まれ変わると言われています。つまり、6年前の自分と6年後の自分は「別人」です。考えの一つや二つ変わったってなんら不思議なことじゃないでしょう。

ちと乱暴な理論かもしれませんが、当たらずとも遠からず、です。この「人間は絶えず変化していて、明日のわたしと昨日のわたしは違う。」というのが意識の中に入っているだけでも、くらしや考え方たがずいぶんと変わるのではないでしょうか。

つまりね、変化は恐れるべきものではありません。自分自身が日々変化しているのですから。周りを観てみると、「だいぶ夏草が深くなってきたな」「あじさいの時期もそろそろ終わりかな」と思うでしょう。それは自然が絶えず変化しているからです。言わずもがな、その変化に対して受け入れられないと文句を言うのは、これはまさしくお門違いというものです。

「公」の意見が絶えず変化されてはたまったもんじゃありませんが、「私」は変化に富み柔軟であるべきなのです。カチカチに固めてしまってはいけません。爪や髪の毛が伸びたら、このことを思い出してみてはいかがでしょうか。

6/23/2015

甘納豆

言葉にするということは、みんなに理解されている以上に大切なことなのかもしれません。何気ないことかもしれないけれど、「ありがとう」「ごめんなさい」「気をつけて」「おいしいね」、この類の気持ちは、口に出して表現することの方がいいものかもしれません。恥ずかしくって言えないときもあるでしょうし、場合によっては悲しくってとても口に出して言えない時もあるでしょう。でも、なるべく心から直接出てきたものを口に出す訓練はしておいた方がいいようにおもいます。

人前で喜んだり怒ったり悲しんだり楽しんだり、つまり、喜怒哀楽を表現することに遠慮しすぎているのかもしれません。言葉を口にするときは、必ず先立つものがあって、それをどうしても表現したくて「言葉」になるというのが自然であるべきだし、本当です。あまりにもそれを理性で押さえつけすぎて、人前では感情をあらわにするものではない、としてしまっていると、やがて心と口のつなぎ目がプツリと切れてしまうんです。現に、切れてしまっている人がたくさんいます。

この問題の、本当の問題は、他人に対して自分の感情を知らず知らず偽るようになることではなくて、自分自身に対して自分の感情を知らず知らず偽るようになってしまうことなんです。この「知らず知らず」っていうのが怖い。一度そうなると、あとで気が付くことさえ難しくなるし、正していくのは苦労がいります。

そのためには、感情やわきあがってくる気持ちを言葉にする訓練をすることです。ポッと浮かんできてきえそうなものも口に出してみる。喜怒哀楽の激しい人だと思われるくらいが、いまの時にはちょうどいいのかもしれません。案外人間は自分の思っていることを知らないものです。そして、それすらも気が付かないものです。

6/22/2015

月餅

明日は「夏至」。一年で最も日の長い一日です。東京付近では、4:30頃日が出て19:00頃日の入りとなります。14時間半もお天道さんを拝めます。天気もいいようですし、久々に気分も高揚しそうです。

わたしは思い悩んでいる人に、必ず言うことがあります。「夜は考えるな。寝ろ。昼考えれば大したことじゃない。」どうしてこう夜に物事を考えると、思い悩む方向に行ってしまいやすいのでしょうか。夜布団の中で考え事をしたってろくなことになりませんものね。

これは完全なわたし個人の理論なのですが、人間が昼行性の動物に進化した要因に、夜考え事をするとろくなことにならず、ひいては自ら身を滅ぼしかねないからだと考えています(平たく言えばね)。高度な思考能力を持ったがゆえに、暗闇に対する恐怖や夜行性動物に対する恐怖から、夜は何も考えず寝ようじゃないか、身体を休めようじゃないか、と進化したのです。

そうなると、明日の夏至の日は考え事をするにはもってこいな日なんです。14時間半も考える時間があります。今年一番長いこと考えることができる日なのです。この際壮大なテーマについて日中ずっと考えてみるってのもいいかもしれません。とにかく夏至は考えることに向いた日でもあるんです。もちろん私の持論ですがね。

それに、書いてる途中で「今日」になっちゃってたようです。

6/21/2015

おしるこ

「明日」が「今日」なった。今日もちゃんと「明日」が来て「今日」になったんだ。その後ろにはまた「明日」が生まれている。たしかに生まれたんだ。

わたしが死ぬまで「明日」が「今日」になる。「明日」ちゃんと来るし、「今日」にもちゃんとなるんだ。絶望しそうなほど悲しいことがあっても、我を忘れるほどうれしいことがあっても、「明日」は来るし「今日」にもなる。泣いたって、叫んだって、歓喜したって、歌ったって踊ったって、お腹が減ったって、「明日」は来るし「今日」にもなる。

これはありがたいことだ。何があっても日は沈むし夜はふける。少し経てば日は昇って朝が来る。毎日毎日、律儀に確かに、来てくれる。まあ、きょうもがんばりましょうよ、ってどんなときも顔を見せてくれるんだ。生きているかぎり、この幸せを肌で感じられる。

わたしたちは、生きている。たしかに生きていて、「明日」が「今日」になることを知っている。みんなそんな風に生きている。この今日の日も、わたしが喜んだり、悲しんだり、どこか違うところで、知らない誰かが喜んだり、悲しんだりする。それでも「明日」はちゃんと来てくれるし、「今日」にもなってくれる。

いつもそうしてきたし、これからもきっとそうするだろう。「明日」が確かに来てくれるから、頑張れるし、「今日」になってくれるから、生きていられるんだ。みんなに平等に、にっこり笑いかけてくれるんだ。

6/20/2015

チョコレートムース

筋トレはたまにすごく負荷のかかることをやると、身体にとっていい刺激になります。1、2回しか上げられないような重さでベンチプレスをやるだとか、同じような重さでスクワットをやるだとか。短距離走も一緒で、ゴムチューブで走る方とは逆の方に引っ張ってもらいながら走ったり、タイヤを引きずりながら走ったりするといい。

どういうことかというと、そのすごく負荷のかかる状態を体験した後に、まっさらな、自分本来の状態で同じことをすると、いつもよりも軽く感じるのです。そして、短距離走なんかで言ったら、実際にタイムが上がっちゃったりします。荒治療っぽく見えますが、これは案外身体にとって良かったりするのです。

このお話は、筋肉とか運動とかだけじゃなくて、脳みそとか勉強についても同じことが言えます。例えば、ものすごく大雑把な分類の仕方ですが、いつも新書を読んでいる人います。新書は理解しやすいように書いてくださっているものですから、割と読みやすいものです。その人がより専門的な本を読みます。素人にはかなり難しい本です。例えば専門用語だらけの脳科学の本だとか、近代の哲学の本だとか。もう頭がぐちゃぐちゃになります。でも、そのあといつも読んでいる新書に戻ると、どうしてどうして、すらすら頭に入ってくるのです。

わたしは文系なので、どうしてもそちらに話が傾いてしまいますが、古典を読むときも、現代語訳だけで普段読んでいる人が、書き下し文もしくは原文を読み、現代語訳に戻ると、こちらもスラスラ入ってきます。これはわたしだけかもしれませんが、英文を読んだあと、日本語の文章を読むと同じようにスラスラ読めるのです。

筋トレでも読書でも同じですが、1回も持ち上げられないような負荷でやっても、それはダメですし、全くもって理解できない文章を読んでも、うまくいきません。この見極めも少し経験が必要かもしれません。それに、たまにじゃないといけません。しょっちゅうキツイ負荷をかけていたら、身体が壊れてしまいますし、頭もパンクしてしまいます。節度を守ってやると、それはそれは効果的です。

6/19/2015

きんつば

初めて見たときの感覚は、長く見続けてからではもう取り戻せません。成熟していくことは素晴らしいことだし、
それを目指しているようなところもあります。でも、所謂「素人」の目線、初見の目線というのは面白いし、案外本質をついていたりするんです。

丁度小さい子どもの「なんで〇〇なの?」がそれです。こっちが唸ってしまう、なんとも素晴らしい問いかけを投げかけてくれます。しがらみが全くないんですんですよね。

同じように、ある程度知識が付き、そのもののやり方や見方が分かってくると、その「道」に乗っかってしまう。その軌道に乗ってしまうものです。そうすると、舗装されているから歩きやすくはありますが、実はほかに素敵な風景が見られる道を見逃してしまいがちです。

そういう状況の時に初めてそれを観た人、やった人に聞かれたことがすごく的確だったりする。ちがう道がひらけちゃったりするんです。わたしはフットボールを現役でプレーしていた時、何度かそれで助けられたりもしましたし、初めてちゃんと集中してフットボールを観る人と一緒に観ると、思わぬ視点を指摘してくれたりするので、本当に楽しいのです。

知識を持って何かすることだけが、重要なのではありません。全く何も知らない状態で飛び込むってすごく価値のあることですし、とても楽しいことです。気になっていること、「何も知らない」で始めてみませんか?

6/17/2015

ババロア

日本人は意見の違いを受け入れることが、どうも苦手なようです。「わたしの意見」と「あなたの意見」を素直に違った意見として消化することが本当にへたくそに感じます。「わたし」と「あなた」がそもそも違うのだから、意見が違うのも当たり前でしょう。でも、納得がいかないみたいです。

みんな同じがいいんだ、という意識と言いましょうか、空気と言いましょうか、がこの国には漂っていて、少し違ったことを言ったりすると、もう危険人物のような目で見られてしまいます。「十人十色」を本質的に理解している人は本当に少ないです。

議論自体も避けてしまう人がたくさんいます。自分の思いを言葉にできない(しない)。(しないというのはできないのと一緒ですがね)周りのなんとなくの輪から外れてしまいそうだから、みんなに合わせるようにする。なんて協調性のある民族でしょう。そもそも議論をしたところで雰囲気が悪くなるだけだし、なんにもならない。こういう人が本当に多い。

日本人は協調性が高いだとか日本人が自らよく言いますが、ある意味では「ことなかれ主義」なだけです。きちっと自分の意見を言える人があなたの周りにどれくらいいますでしょうか。もしいないとすれば、それはあなたにも問題があると思わなければいけませんね。

違った意見があって当たり前ですし、自分の意見が周りと違うことは当たり前です。家族でさえ意見が違うものです。そんな当たり前をもうちょっとちゃんと考えてみましょう。違う意見を受け入れられますか?自分の意見をきちっと言えますか?

麩菓子

ルールは大切なものです。それは、そのルールが向けられている側が変えられるものであってはいけません。そんなことは当たり前です。かえられたら、そんなもの意味もなくなってしまいます。ないも同然です。それが起きようとしているから、一大事なんです。

権力を持っているものというのは、暴走しやすいのです。そして、暴走したときにはもう止められないのです。そのために、権力を持つものを縛るためにルールというものがあります。守らなければ罰せられます。罰する側にも重大な責任があるのです。きちっと観察していなきゃいけません。

もういよいよ後戻りできなくなりそうなところまで来ていることに、危機感を持っていますか?
自分たちが「わたしは関係ない」「どうせ変わらない」「難しくてよくわからない」なんて言っていたせいで、取り返しのつかないことになってしまったらどうするんですか?
子どもたちを守るのはわたしたち大人だ、という責任はありますか?

これはわたしたちみんなの責任です。誰かが悪いとか、外が悪いとか、そういうことではありません。ちがうのです。どういうことになってしまうのか、それを許すと何が起こるのか、知ろうとしましょう。権力者をちゃんと見張りましょう。

ルールを守らないことを許しては、絶対にいけません。

6/15/2015

ジェラート

風邪を引けば、「あゝ、健康が一番だ。」とみんなが思います。わたしも例にもれず、思います。だから、健康な日々こそありがたいと思えるようになればいいですよね。これは意識しないとなかなかできないことかもしれませんが。あんまり「今日も健康に過ごせてよかった、明日も健康に過ごせますように。」と、眠りにつく人はいないのかもしれません。口に出して言うって習慣にしてもいいかもしれません。

どうも人というものは、今あるものや、持ってるもの、近くにいるものに対してはあまりありがたがらないもののようです。「日々の当たり前に感謝」なんて言葉があるくらい、このことについて忘れっぽいのです。こういう言葉がないと忘れちゃうからあるんですものね。

あの3.11の大震災があったとき、「日々の当たり前に感謝」だと日本中の人が考えました。身をもって体験しました。でもね、これも今では少しずつ忘れられてきている気がします。忘れるなよ、と地面が動いて時々私たちを脅かしますが、それがなければ、みんな忘れちゃっているのかもしれません。

あの震災の悲しい部分を忘れることは、前に進んでいくうえで大切なことですし、必要なことです。しかし、「日日々の当たり前に感謝」はいつも心のどこかに、頭の片隅に、いられる場所を用意しておきたい。それを再確認する時が、風邪を引いた時でもいいと思います。

折に触れて忘れずにいたい、幸せについての心構えです。

赤福

「坊や~よい子だねんねしな。い~まも昔も変わらない は~はのめぐみの子守歌~」なんて聴くと、みなさん懐かしく思うのではないでしょうか。「まんが日本昔ばなし」の主題歌ですね。わたしはこのアニメが小さいころから大好きです。今もたまに、観たりします。

この「まんが日本昔ばなし」の声優は市原悦子さんと常田富士さんのお二人だけでやられていたわけですが、本当に見事に一つ一つのキャラクターの個性が立っているのが印象的で素敵です。個人的には「貧乏神と福の神」「十二支の由来」なんかが印象に残っているなあ。

少し前、このアニメの声優として活躍された市原悦子がNHKの朝の情報番組「あさイチ」に出演され、「まんが日本昔ばなし」についてのお話をされ、「山姥」について自身の見解をお話しされる場面がありました。その中で、市原さんは山姥のお話がお気に入りで、山姥というのは“片輪”になった人や“毛唐”の人、所謂世間から外された人が山にこもり、恨みつらみをもって山姥になったのではないか、というような趣旨のお話をなさったんです。

市原さんが出演されたコーナーが終わり、別のコーナーに映った後、“片輪”“毛唐”という発言に対する、差別的発言だったとした謝罪が入りました。
市原さんは立派な方だとわたしは思いました。たしかに“片輪”や“毛唐”という言葉は今現在は差別用語として認識されているものですが、今現在そういうものが多すぎるというように感じます。なにか、そういう人はいないんだ、そういう存在は抹消したいんだ、とでも言いたいように感じます。

大切なことは、そういう人たちがいて、それをきちっと認めること。そして、その人たちもみんなふくめて住みやすい世の中にしていくこと。「差別用語だから使ってはいけません」で差別はなくなるものではないんです。言わずもがなだけど、やたらめったら使っていいわけでももちろんありません。とにかく、無いものにしてはいけません。これこそが、個性なんですから。

6/14/2015

プディング

スポーツを観に行った時のスタジアム、行楽地、電車や大きな交差点、周りに“他人”がたくさんいる時いるときに、ふと思うことがあるんです。ああ、本当にこの人たちは別々の人生を歩んでいて、それぞれ思いを抱いているんだよなあ、と。

毎回この当たり前のようで、不思議な感覚に襲われると、“他人”を考え、“他人を感じる。本当に自分以外の人がこの世界にはいるんですよね。このことを本当に気が付いて考えて理解している人はどれくらいいるのだろう。それほど多くないように思います。

「親切」に関することでも書いたりしたのだけれど、本当は相手、つまりは“他人”の判断なのだけれど、多くのことは自分の判断でなされています。その方が多いです。でも、ある意味でそれはしょうがないことなのかもしれません。だって、自分は“他人”じゃないんだもの。どうしたって自分以外の尺度にきっちり合わせることは、相当に苦労するし骨の折れる作業なんです。ひょっとしたら無理なことなのかも分からない。

でも、周りには“他人”が確かにいるんだ、という意識を持っていることはすごく重要です。“他人”の存在を認めると、“自分”の存在もおのずと見えてくるからです。闇が光を生む、とでもいうのかな。自分の観ている世界を確認して、「うんうん、外の世界が確かにあるな、“他人”が確かにいるな。」とちゃんと知っておく。寂しさもすこし薄れます。へんてこな結びで終わります。哲学を一つまみ、でした。

6/13/2015

おかき

「諦める」ことについて昨日は少し考えました。わたしはまだまだ若いから、それほど自分のことをよく知りません。自分の長所と短所も本当はよくわかっていないんです。今はそれを知るために日々生活しているようなものです。

きっかけは、昨日元世界陸上400mハードル銅メダリストの為末大さんと、「ほぼ日」でおなじみの糸井重里さんが、たまたま「諦める」ことについてTwitterでつぶやいていたのです。内容こそ少し違えど、「諦める」ことは人としてみんなに考えられている以上に大切なことだったりするんだと、両者のつぶやきを読んで思ったのです。

人それぞれ出来ないことがあります。もう本当にできっこないこと。例えば身長を2mにするだとか。これはどうあがいたってできません。でもね、「出来そうにないこと」と「出来っこないこと」は違います。前者はどうにかすればできる。そこの違いというか線引きは、いろんな人に出会って、様々な現場に行ってみて、聴いて話して触って感じた経験が多いほど、見えやすくなってくるのかなあ、と思うのです。

人は毎日、毎日選択をしています。必ず、意識的にも無意識的にも選択をして今に至るわけです。これからの選択が未来の自分を創っていきます。一つのことを選択すれば、ほかのことは諦めていることになるのです。つまり、みんな諦めながらここまで来ているわけです。

もちろん最初からセンスのいい人はいるのだろうけれど、上手に選択するには、上手に「諦める」には、たくさんの選択を意識的に行って、その経験を積んでいくしかないんでしょうね。ビシッと真っ直ぐ行こうとしたって、あっちにそれて、こっちにそれてしてしまうものなのかもしれません。

自分のいいところを知っておくと、こういう時に役に立つんです。うぬぼれじゃなくね。

6/12/2015

スフレ

スポーツはなんだか不思議なものです。うっかり別の惑星から来た宇宙人みたいな気分で観てみると、本当にわけのわからないことをしているように見えるんじゃないかしらん。

大の大人が身体を酷使して一生懸命やってる。野球を観れば、真剣にボールを投げたり捕ったり打ったりしているし、フットボールを観れば、ボールを蹴ったり大きな枠を守ったりしている。必死で走って怪我なんかしちゃう人もいる。ラグビーもテニスもバスケットも、ほかのスポーツもみんなおかしなくらい大人が一生懸命になってプレーしています。

それで、もっと不思議に見えるのが、それを周りで応援している人々。本当に本気で叫んで一つ一つのプレーに一喜一憂し、ほとんど命をかけちゃってる人までいる。それも、プレーしている人よりも少ない稼ぎの人が大半であるにもかかわらず、毎週お金を払って応援に行く。これはもうもしかしたら一種の狂気かもしれません。

でもね、スポーツは人を生かす、生きる力を与える、とわたしは本気で思っています。スポーツが原因で命を落とす人は残念ながら目を覆いたくなるくらいたくさんいます。それでも、それを解決するにはスポーツしかないんだと、わたしは本気で思っています。

わたしはフットボールの大ファンで、フットボールはわたしの生きがいでもあります。これほど人々を熱狂してやまないスポーツは地球上ほかにありません。どこに行っても、ボールを追いかけまわし、蹴り合う子どもたちの姿が見られます。スポーツは「民」のものであり、特にフットボールは「民」のものです。だからみんなスポーツで熱狂するんです。

6/10/2015

雷おこし

足回りが少し疲れているようだったので、足つぼマッサージのグッズを買いました。足の裏の絵の上にぼつぼつのツボを刺激する突起が付いているやつです。この手のものは痛いと感じたことがなかったので、今はどうなのだろうという思いもあり試してみました。

痛ーい!
立っていられないほどでも、足踏みができないほどでもないのだけれど、確かに痛いのです。ショック。日ごろから身体に気を使っていなかったからこういうことになるのです。

この頃は湯船につかることがほとんどなく、シャワーで済ませてしまっていたのですが、こんなことがあった日ですから、もちろん今日はゆっくりつかりました。やっぱり気持ちがいいですよね。お風呂は大好きです。本当はいつでもどこでも湯船に浸かりたい。しかし、何かと言い訳して浸からないでいたことにいまさら反省しました。

それと、軽い立ちくらみや動悸を感じることが多々あったのですが、ふくらはぎをマッサージしたら、今のところよくなっています。ほぼこのような症状は消えました。どうやらふくらはぎは、リンパや血流において重要な場所らしく、マッサージをしたことによって流れがよくなり、症状も改善したのでしょうね。

極度のO脚であるわたしは、ふくらはぎの外側の筋肉がカチカチに固まってしまっていて、長く歩いたり走ったりすると、外側ばかり筋肉が張ってしまいます。この外側の筋肉を、今日足つぼグッズと合わせて購入したツボ押し棒でゴリゴリドンドン強引にほぐしてみると、どうでしょう、足先までスッと何かが通った感じがして、脚の感覚がまるで違うのです。

実際に、これを一通りやった後にもう一度足つぼグッズに乗ってみたら…痛ーい!
まあそんなに早く変わるものではありません。でも身体は変えられますから、コツコツやっていきたいと思います。この際、O脚を治してしまおう。今決心しました。

6/09/2015

チーズケーキ

語学の勉強をするのは好きです。その言語を母語としている人たちと、コミュニケーションをとることができるから。それはまあもちろんのことなんですが、言語というのは文化そのものなんです。その人たちの暮らしがそのまま言葉になる。だから語学を学ぶのは楽しいのです。

例えば、日本語にはいくつもの「雨」の種類があります。霧雨、夕立、時雨、五月雨…これは、日本という国が雨が降り、さらに季節によって降り方が違かったり、雨そのものを愛でる、自然を愛でる習慣があるからこそ生まれる言葉ですよね。雨の降らない砂漠地域にこれほどの「雨」の種類はないでしょうね。

お肉の焼き加減は、本来日本語にはなかったものです。「レア」とか「ウェルダン」とか。日本語で言おうとすると、「表面は焼けているけれど中はほとんど生」とか「完全に中まで火が通った状態」とか言うしかないですから。これは肉を食してきた人々の言葉で、フランス語なんかにも独自の言い方があります。日本人は肉を食べない人々でしたから、こういう表現は持っていないのです。ね、なんだかおもしろいでしょう。

こうやって見ていくと、気持ちの伝え方だったり、生きることに対する考え方だったり、そういうことも言語から学ぶことが出来たりします。みんな人間なんだけれど、生まれた地域や時期によって、話す言葉は違う、習慣や文化は違うんです。それを認める心を養うのにも、語学はいいかもなあ。

6/08/2015

ゆべし

今はパソコンで資料を作ったり、このように文章を書いたり(打ち込んだり)することの方が多くなっていますが、たまに、無性に紙に文字を書きたくなる時があります。書くという作業が定期的に必要です。

わたしは字がもう恐ろしくへたくそで、それが恥ずかしいから、少しでもマシな字が書けるように写経をしてみたのです。そしたら、字を書くのも少しは上達したのかもしれませんが、それよりも写経という行為自体がとても魅力的なものだと気が付いたのです。不思議と心が落ち着くと言いましょうか、自分の感情の流れがスムースになると言いましょうか。

その時、自然にしていた自分の行為――何か思うことがあったらメモ帳にメモしておく、だとか、今後の予定を一度紙に書きだす、だとかという行為――が、心の整理をしている行為なのかもしれないなあ、と思うようになったのです。自分で書きだして視覚化すると、思っているだけの時よりもなぜか心がすっきりして頭が冴えるのです。しかもそうしたもののほうが、実際に行動に移してうまくいっている。

本当はパソコンでもそうなるといいのですが(今のわたしは徐々にできるようになってきました)、やっぱり紙に書いた方が落ち着くんですよね。写経は少し時間がかかるものだから、しょっちゅうやることはできないけれど、思ったことやひらめいたことを、つらつらと書きとめておくだけでも、霧は晴れてくるものです。恨み節でも一旦書いて捨てちゃえば、案外すっきりしちゃうかも。

ちなみに、筆ペンで書くと、より一層気持ちがスッとするよ(これはわたしだけかな)。

6/07/2015

プレッツェル

電車に乗っていて、席を譲ろうと「どうぞ」と立っても「大丈夫です」といわれることがしょちゅうで、座ってもらうことよりも、断られることの方が多い。どうもわたしは席を譲ること、「親切」がへたくそなようです。

思うに、日本人には遠慮してしまう方が本当に多いと思います。「親切」は受ける相手が決めることなのだけれど、「親切」を受けるのが上手な人っていうのがいるんです。わたし個人の意見としては、次の駅で降りる場合以外は、譲られたら座るのも思いやりであるように感じます。バカみたいな話ですが、断られるとほんのちょっとだけさみしいものです。

優しい人が多いこの国ですが、それが裏目に出てしまう場面もたくさんありますよね。「レディファースト」なんていうのもなかなか日本人はうまくできないんじゃないかしらん。これは男性ももちろんそうですが、実は受ける側の女性が上手かどうかということも大切です。「レディファースト」というのは、女性を立てているようで、男性を立ててもいるのです。

同じように、「席を譲る」という行為は、譲られる側が尊重されているようで、譲る側も尊重されている行為なのです。つまり、譲られる側の器量がないといけません。周りを気にしすぎる日本人は、断られた人を見るだけで、「親切」さえも怖くてできなくなってしまいますから。

善意と善意のやり取りには、それなりの器量と思いやりが必要なんだ。

6/06/2015

水ようかん

「日めくりカレンダーアプリ」といったようなものを愛用しています。わたしは旧暦も知りたい人間ですので、このアプリには大変助けられています。ちなみに今日は旧暦では四月廿日。満月から徐々にかけてきて下弦の月に近づく頃です。

6月は水無月(正確には旧暦の6月を指す言葉ですが)、水の月です。二十四節気では「芒種」稲の種まきの頃で、七十二候では「蟷螂生」蟷螂の生まれる頃、です。初夏の日差しを浴びて、緑一面生い茂る、そのはじまりといったところでしょうか。

そしてこのアプリには、六曜はもちろん、干支、九星、十二直、二十八宿なんかも載っています。
さらにさらに、今日の格言(これは運営側が勝手に決めたものでしょうが)や、過去この日付に起きた事象も載せてある優れもの。ちなみに今日の格言は「思い立つが吉日」このあいだこれに関することを書いたなあ。事象は「1965年 実業団8チームで日本サッカーリーグが発足」現在のJリーグの前身ですね。

本日誕生日、命日の著名人や今日の花、石も載っていて、これさえダウンロードしておけば、会話の話題にこと欠かないのではないでしょうか。わたし個人としては、旧暦や中国の季節を定める方法に気軽に触れられる点がとても優れていると思います。Playストアでは「日めくり」と検索すれば一番最初に「日めくり 2015年版」という無料アプリが出てきますので、どうぞ一度お試しあれ。

6/05/2015

カンノーロ

時々、イタリアに思いをはせることがあります。1年間だけミラノに住んでいたことがあって、思い入れのある国なんです。自分が一生懸命だったということもあるんですが、もう踏んだり蹴ったりの連続で、本当に嫌になることはたくさんありましたが、ものすごくチャーミングで素敵な部分もたくさん持っている国です。

今はもう昔より「滞在許可書」という書類を取得するのは簡単になっていると思いますが、私がいたときは大変でした(それより以前からいた方にお話をお聞きすると、もっともっと大変だったようです)。大体、申請から取得まで2週間程度でできるはずなのですが、私の場合は1か月半。指紋を登録するのですが、その作業に「今日はコンピュータの調子が悪いから、また明日来てくれ」なんて2回ほど。私の後の番だった端正な顔立ちの女性は同じ作業ができたそうで、全く呆れてしまいました。

そしてそして、やっとの思いで受け取りの日となり、受け取ってみると、私の滞在許可書の生年月日の欄には「1969年」と。わたしは「1991年」まれでございます。受け渡しの担当であった警察官も「69年生まれにしちゃ若いもんね、ハッハッハー。」トホホ…

でもミラノのまちを歩く男性女性には、本当にエレガントな装いの方が多くて、本当に素敵です。ドゥオーモは圧巻の一言で、毎日見ても飽きません。

カルチョ(イタリア語でフットボールの意)は、国自体が保守的で古い体質だということもあり、なかなか新陳代謝が良くないせいで嫌な問題もたくさん抱えていますが、イタリア人はみんなカルチョを愛しています。カルチョはイタリアにとって生活水準のものなのです。井戸端会議にだって、カルチョを知らなきゃ参加することすらできません。

気が付いたらずいぶん長く書いてしまいました。今回はこのあたりで。これからもちょこちょこイタリアのことは出てきます。素敵な国です。

6/04/2015

かき氷

昨日、ある女性と話していて気が付いたことがあります。「女子力」というこの世の女性を魅了してやまない言葉の意味を、わたしははき違えていたようです。少し考えてみればわかることだったのですが、考えてもみなかったんですけれどね。

お料理が上手だったり、お化粧が上手だったり、男の人にチヤホヤされるのが上手だったり…「女子力」っていうものはそういうもんかなあ、とほとんど考えもせず解釈していました。でも、そうでもないみたい。たしかにこういったことは「女子力」において大切なことなんだけれども、これはあくまで過程段階で、女子力高いと言わしめるゴールの前段階なんですね。

つまりどういうことかというと、料理を作ったらそれを男性に食べさせたり、SNSで公開したりすること。お化粧を変えたら、それとなく男性に気が付かせるもしくは周りの女子に指摘させる。こういった類の力のことを指す言葉なんですね。

ただ毎日料理をしていても、それは女子力が高いとは言えません(個人的には、公開するでも見栄を張るでもなく当たり前のように毎日料理をちゃんとする女性の方が、ものすごく素敵だと思えます)。それを公開して褒めさせないといけません。お化粧を変える勇気を持ち、それに気が付かせないといけません。それが「女子力」なんですね。「女子力」を向上させよう、と思うなら、まず恥を捨てなければいけませんね。

屁理屈が過ぎたかしらん。

6/03/2015

マシュマロ

久しぶりにしっかりとした雨が降ったように思います。最近はずっと日差しが強かったから、植物や動物たちは一休み、梅雨に備えているのではないでしょうか。季節の変わり目に降る雨は、一度次の季節の準備をわたしたちにさせてくれようと、「もうすぐ、次が来ます」と伝えてくれているように思います。
 
夏に振る雨、夕立もまた良くて、私個人としては好きです。夕方ごろバァーッと降って、気持ちの良い夜風をさそってくれます。今はもう熱帯夜ばかりだから、降ったところであんまり恩恵にあずかることはできないでいますがね。でもその雨の心意気はいいじゃありませんか。
 
「夏は夜 月の頃はさらなり 蛍の多く飛びちがひたる またただひとつふたつなど 仄かに光りてゆくもおかし 雨など降るもおかし」
清少納言の随筆『枕草子』の第一段の、夏について述べた有名な部分です。この時代と現代の夜の気候は違えど、やっぱり「雨など降るもおかし」と清少納言も思ったわけです。
 
仕事や行楽に出ようとしていた人にはちょっと嫌な雨ですが、まあそこは心の持ちよう。雨の日だからこそ楽しめることもあります。これから梅雨です。いっそ今年は雨を生かした活動をしてみてはどうでしょうか。雨の日の行楽地、閑散としていてこれまたいいんですよ。
 
あ、ライチョウはね、雨が降るとひょっこり顔を出すんだよ。

6/02/2015

くずきり

思いついたことをすぐに行動に移すということは、本当に大切なことです。最も大切なことかもしれない。人はいつ死ぬかわからないし、ひらめいた時の熱量はひらめいた時が一番高い、グッドタイミングだと思うんです。

「思い立ったが吉日」という言葉もあります。その瞬間がベストなんです。昔から言われていることは、あっていることが多い。でもね、これって案外難しいんですよね。

人は考える動物です(ほかの動物も考えているかもしれないけれど)。考えるから「思い立つ」んだけど、考えるから「踏み出さない」んですよね。少しでも年を取っていれば、人生を生きてきた経験もあります。その人なりに重ねてきた体験もあります。それをふまえた上で「思い立つ」んだけれど、そのあとすぐ厄介な「でも…」が出で来るんですよね。

友人から教えてもらったんですが、直観というのは今までの経験や体験を総動員して瞬時にひらめいたこと、なんだそうです。私も、直観は大体あたっているなあ、と思っていたのですが、そりゃそうですよね、スーパーコンピュータだって人間が考えて作っているわけですから。

ここで大事なことが「ひらめきがあったらすぐ行動に移す」ということです。待ってる暇なんてない。これはずっとわかっていたつもりだったんだけれど、最近やっと理解できてきたかなというところまで来ました。それでおもったことがね、「行動に移すための資金は必要だ」といういかにも当たり前なことなんです。でも、明確な目的のために必要な金額以外のお金はいらない、と思っていた私には、一種の新しい発見だったんです。まあこれも目的のためのお金といえば、そうなんですが。

お金なんかのためにあきらめなければいけない様にならないためにも、お金は必要なのかもしれません。でもね、忘れちゃいけないのは、どれだけあってももう十分だって思わないのがお金だったりするってこと。

6/01/2015

シフォンケーキ

人間は不思議なもので、いろいろなことを繰り返し行う生き物です。「歴史は繰り返す」とはよく言ったもので、少し歴史を学べば分かるくらい、同じことを繰り返して、同じように失敗している。これは、昔から人間の心理が変わらないという学びでもあります。
 
もともと歴史を学ぶことが好きであったこともあり、今年は歴史を学ぶ年にしようと決めた私は、古典文学を中心に古いものや歴史について書かれたものを、読んだり見たり聞いたりするようにしています。それと同時に、新聞やニュースもなるべくチェックするようにしているんです。基本的なことではありますが。
 
『新・戦争論』という本の中で、佐藤優さんが、「通時性においては、歴史を知り、共時性においては、国際情勢を知ること。」とおっしゃり、池上彰さんも「歴史を改めて勉強することが必要」とおっしゃっています。今の時代も、前の時代からの積み重ねがあってのものなわけですから、その積み重ね―地層みたいなものでしょうか―を知っておくことは、物事の根本を理解するうえで重要なことだと言えますね。
 
今は印刷技術も優れているし、Kindleみたいなもので電子書籍として読むこともできます。歴史上人類が発明したもっとも偉大なものに、「文字」があると思いますが、その恩恵にあずかるチャンスが数百円で(タダという場合も大いにありますね)あるにもかかわらず、どうして逃す手がありましょうか。名の通った古典文学作品を読んだことがないということ自体、恥ずかしいことでもありますから、読んだことのない方はこの際手に取って読んでみましょう。