11/25/2015

メンブリージョ

私は、郷土愛とか愛国心とか、そういったものが薄い人間なのかもしれません。それがいいことなのか悪いことなのかはわからないんだけれど、そういうものは大して大事じゃないように思う人間のようです。

ラグビーワールドカップで日本代表が大健闘しました。そこで話題の一つとなったのは、多くの“外国人”選手が日本代表としてプレーしていることでした。2015年のミスユニバース日本代表の宮本エリアナさんはアフリカ系アメリカ人と日本人のハーフで、その容姿と経歴から日本代表に本当にふさわしいのかという議論も起こりました。

私は初めて会う方や興味を持った人物を調べるときに、重要な要素だと思っているものが、その人が“いつ”“どこで”生まれたか、ということです。つまり年齢と国籍をみます。なぜなら、その二つはその人の人格を形成する上でとても大きな影響を与える要素だと思うからです。翻って、私自身にもこの時代に日本に生まれたことは私に大きな影響を与えていることは間違いありません。しかし、この二つはそれ以上でもそれ以下でもないのです。

そもそも“日本人”とはどういう人たちのことでしょうか。単純に「日本国籍を有している人」です。ただそれだけのことです。先祖代々その土地に住んでいる必要もありませんし、日本語を話さなければいけないなんてこともありません。日本国籍を有していればいいのです。

私は特に信仰があるわけでもありませんから、特定の地を聖地だとか考えたりしませんし、極端なことを言ってしまえば、狩猟よりも稲作のほうが生き残るのに都合がよかったから定住するようになった、ぐらいにしか考えていません。それに、つい140年くらい前までの“日本人”は自分の「藩」を国と考えて生きていたわけですから。ほとんどこんなのは人間の意識の問題です。

範囲とかに縛られなくていいと思います。

11/23/2015

夏みかん丸漬

“Because it's there”
 
イギリスの登山家 George Mallory は"Why do you want to climb Mount Everest?"と聞かれ、こう答えました。人間は、世界一の頂を目指し始めました。無論標高8000mを超える場所では生きていけません。身体が死んでゆきます。死と隣り合わせのチャレンジです。登頂しても、山頂に何か特別な物質があるわけではありません。それなのに、「なぜエベレストに登るのか。」それは、「そこにエベレストがあるから。」なのです。

立て続けに登山映画を観る機会に恵まれ、「エベレスト 3D」を劇場で、「アンナプルナ 南壁 ー7400mの男たちー」をDVDで鑑賞しました。どちらとも、観終えたときの感情は言葉にしがたいものでした。

前者は、比較的新しくできた劇場で鑑賞したため、現状では最新の設備で楽しむことができました。特大スクリーン、クリアで3Dによる迫力のある映像、立体的な音響、劇場の醍醐味とはかくありなん、大満足の体験でした。これをも上回る、「MX4D」でどんな体験ができるのか、映画は本当に素晴らしい進化を遂げています。

両作品ともに言えるのは、山がただただ美しい、ということ。ヒマラヤの山々は現地の人々が信仰するチベット仏教の聖域です。「神々しい」という言葉が、ここの場所を表すために生まれたのではないかと思うくらいピッタリで、「美しい」ともまた違う、やはり「神々しい」場所なのです。

その神々の座に、小さな小さな人間が一歩一歩、遅々とした歩みで、しかし確かに山頂に向け前進します。ヒマラヤの山々ー荘厳で深淵なる生命ーと、人間ー脆弱で些々たる生命ーとのコントラストが、観終えた私自身を虚空へといざなうのでした。

動物の中で、人間のみ「無駄なこと」をします。思い悩んだり、苦しんだり、喜んだり、愛したりします。人間は、ほとばしる生命を「無駄なこと」を通して見出すのです。しかしそれは時に(いえ、大体の場合において)、同じ人間からすら本当の「無駄なこと」に見えたりします。確かにそんなことは必要ないのかもしれません。

でもやるのです。なぜなら、そう、 “Because it's there” 

11/20/2015

カルボンドゥルセ

「大人になるな」というのは、クリエイティブで仕事をしている方々がよく口にするように思います。たぶん、これは完全なる私の偏見なのですがね。とにかく、物を作ったり何か新しいことをする人はこういうことを言うことが多いように思うのです。

そして、これ、「大人になるな」という言い方が肝心なんだと思うのです。「子どものような感性を持とう」という言い方もされますね。これも、「子どものような」という言い方が肝心なんだと思います。つまり、「子どもになれ」とは言わないんです。

大人が子どものように考える、そのような感性を持つ、ということは、母体は大人なわけです。丸っきりそのまま子どもになってなってしまってもいけません(そもそもそんなことはできないわけですが)。それは、いろんな経験やたくさんのものを見て、たくさんの人に会って大人になった人が、そこに形成されたものに、さらに自らがより純粋であった時の感性を再び思い出すことによって、さらにいいものが生まれるということだと思うのです。

子どもはみな、生まれながらにして芸術家であり哲学者でありクリエイターです。それがいつしかそんなことは忘れてしまったかのように、何かに縛られるようになっていくのです。ある意味では様々なものに縛られながらみな生きています。心持ち次第ではあるのですがね。でも、それも大人の楽しさです。子どものころとは、できることの幅が明らかに広がります。

しかし、大体の大人が自分で勝手に自分の幅を決めてしまうのです。それが大人になることだとでも言うように。大人になったからこそ、できることが広がるのです。そしてそれを気づかせてれるのが、もしかしたら「子どものような感性」なのかもしれません。

11/18/2015

利休さん

「運命を信じますか?」という質問は、もうずいぶんと長いこと人間の世界でされてきた質問です。ある意味では、ここから信仰が生まれたりするわけですから、人間自体か人生自体かの本質をついている質問なのかもしれません。

❝運命❞といわれると仰々しい感じがして、なんだかとっつきにくいですが、要するに❝運❞です。そして、それの対称として持ち出されるのが❝実力❞とか❝努力❞です。

私は半分半分だと、思っています。もしかしたら、運の要素のほうがよっぽど強いのかもしれません。でも、それじゃあどうもいやんなっちゃうから、せめて気持ちだけでも運50%実力50%と思っておくようにしています。

どう考えても❝運❞としか説明できないことは数え切れないほどあります。まず、今の時代に生まれたこと。そして場所が日本であるということ。男であること。そもそもまず生まれたということ...こう上げていくときりがありません。全て❝運❝のように思えてくる。

じゃあ❝実力❝はどういう要素なのか。私は、まず大前提のフィールドというのは❝運❝であり、そこで輝くのが❝実力❝であると考えています。大雑把に言えば、つまりはこういうことです。この時代に日本に生まれたのは❝運❝です。そしてそこで輝くのは❝実力❞です。

出会いなんかも❝運❞の要素が強いと思います。その出会いをどうするのかが❝実力❞です。こうやって❝運❞と❝実力❞はお互いに関係しあっています。

考えてみると、「運のいい人」と「実力のある人」は全く違うようで、同じものを違う方向から見ているだけともいえるんじゃないかなあ。

11/17/2015

ラスコン

たしか、ちょっと前に「人の立場に立って考える」ということについてこの場で書きました。そして、こんなにも早く、もう一度このことについて触れることになるとは思ってもみませんでした。

パリで、すごく悲しい事件が起こりました。「人間ひとり」が100人以上なくなったのです。もしこれが東京の新宿や渋谷、六本木なんかで起こったらどうでしょうか。耐えられるでしょうか。今パリ市民の方々は不安でしょうがない日々を送られていることと思います。

SNSではフランスの国旗を自分のアカウント画像にかぶせ、追悼の意を示すということが盛んにおこなわれています。しかし、これについて私は、ずれているのではないかと感じるのです。

多くの命が奪われたことに対して、純粋に追悼の意を表したいのだと思うのですが、フランスの国旗をかぶせるという行為は必ずしもそこにはつながらないと思うのです。フランス国旗は亡くなった方たちを示すものではないからです。

フランス国旗はフランスのシンボルです。つまりフランスを追悼することになります。さらに、悲しいことに世界ではテロによって亡くなる方はフランス以外にもいます。もっと言えば、今回テロの❝被害者❞という形になったフランスの空爆によって命を奪われた、何の罪のない人々もシリアにはいます。

そんな方たちがこの現象を見たらどう思うでしょうか。亡くなった方を悼み、純粋な追悼の意味でフランス国旗をかぶせている本人の本意は伝わるのでしょうか。どうして罪もなく命を奪われるシリアの方々の追悼の意を表して、シリア国旗をかぶせる人がいないのでしょうか。

それはきっと、シリアの国旗をかぶせるのは自分もイスラム国を支持しているようでまずいでしょう、などということではないでしょうか。フランスならいいのでしょうか。つまり、フランスの国旗をかぶせることで、「私はフランス側の人間です」とそう見る人には見られるということです。そこまでの理解が果たしてあるでしょうか。

様々な角度から、さまざまな人の立場、気持ちになって、想像して、物事をとらえたいと私は思います。そういう努力をします。

今回の事件に対して、純粋に悼み悲しみ追悼している、心優しい人々が誤解されないためにも、きちんと立ち止まって考えてほしいと願っています。

11/15/2015

月でひろった卵

11月も半ばで、世間はもうすっかりハロウィーンからクリスマス気分に切り替わりました。この切り替わりの速さ、なんでも面白そうなものは受け入れちゃう日本人の性質が私は大好きです。かくいう私も、もう気分はすっかりクリスマスです。

年末の日本ほど興味深いところはなかなかない気がします。25日にクリスマスを祝い、年明け新年のご挨拶には神社に出向き、お寺に訪れ厄除けをしてもらう。ここだけでキリスト教、神道、仏教がごちゃ混ぜになっているんです。面白いですよね。いつまでもこういう国であってほしいと思います。

脇道へそれましたが、話を本筋に戻します。クリスマスはどのように過ごすのが理想でしょうか。やはり恋人と過ごすのがいいかもしれません。なんとなくロマンチックな日ですから、めかしこんでディナーに出かけたり、クラシックのコンサートを聴きに行ったりするのもいいものです。お家で鍋食います。なんてちょっと恥ずかしくて言えない空気がありますものね。それもすごくいいと個人的には思いますが。

ちなみに私は、クリスマス当日ではありませんが、今年はバレエを観に行くことに決めております。クリスマスといえばチャイコフスキーの「くるみ割り人形」ですね。チケットが売り切れる前に買いに行かないといけません。

最近私の部屋で流れる音楽、外出中に聞いている音楽はもっぱらクリスマスソング。今年は去年時期を逃したMichael Bubleのクリスマスアルバムを購入しました。またこれが抜群なのです。彼の歌唱力もさることながら、選曲も素晴らしい。聞いているだけで心が弾みます。

今日はあえて、楽しいことを書きたかったのです。

11/14/2015

トゥロン

マラソンの選手はレース前の数日間食事における炭水化物の割合を増やし、レースに向けたエネルギーの蓄積を行います。この作業はとても大切で、失敗するとレース中エネルギーが足りなくなって失速したり、逆に身体が重くなりすぎスピードが出なくなったりします。

ここまではいいのです。実はこの前に必ずやっておかなければならないことがあります。それは、炭水化物の枯渇期間を作るということです。つまり、身体が「炭水化物が欲しい。炭水化物を摂取してくれ。」と欲しがるようにしておくことがとても重要なのです。そうすることで炭水化物を摂取したとき、栄養素を取り込みやすくなり、エネルギーを蓄積しやすくなります。

これは、様々なことに言えるんじゃないでしょうか。私自身のことでいえば、欧州のフットボールリーグがオフの期間はできるだけフットボールを見ないことにしています。NFLのシーズンは6ヶ月しかありません。この短さが人気の秘訣であるとも言われています。

あえて我慢をして、欲を溜めておく。特に自分の大好きなことで、こういう期間をもうける。忍耐が必要ですが、案外楽しいものです。最終的にはそのことで頭がいっぱいになりますからね。子供のころ、お願いしてお願いして本当に欲しくてたまらなくって、さらにお願いしてやっと買ってもらったものがうれしくてたまらなかったように、大人になっても、そういう体験は必要だと思います。たぶん大人の場合、ものじゃないんだと思うけれど。

でもね、当たり前だけれど、我慢するのとさぼるのは、全然違うからね。

11/12/2015

舌鼓

例えば、新しいマフラーが欲しくなった時、マフラーをつけた人がたくさんいるように見えますし、マフラーを置いているお店も多いように思います。

例えば、車が欲しくなった時、いくつか気になる車種をリストアップしてどれにしようか考えていると、街でそれらを多く見かけるようになります。

一つの映像を複数の人が見たとします。例えば渋谷のスクランブル交差点の映像。見終わった後に何が写っていたか聞くと、それぞれ異なったことを言うのです。「女性が多かった」とか「いい天気だった」とか「電話でフットボールの話をしている人がいた」とか。それぞれ見たものを話すと、それが見えていなかった人すらいるのです。

人間は自分の見たいように世界を見ています。上の例を見てもわかる通り、自分の思う世界、「こういうもんだ」と自分が想像する通りに見ているのです。それは個人のレベルで違うものでもあり、かく地域や年代で違うものでもあります。

発生した事象事態に感情はありません。プラスでもマイナスでもありません。それをあなたがどのような角度から見るかで、そこにプラスだとかマイナスだとかが生まれるのです。

自分がどのようなものの見方をしているのか自覚しておくことは、世の中を見る大きな助けになります。その自覚とともに、違った見方をする人もいて、その見方に寄り添ってみることができると、より世界が広がります。

みんなが小さいころに教わった、「人の立場になって考える」というのは、つまりこういうことなんです。