7/31/2015

ところてん

ここ3日間、車の塗装をしていました。すごく納得のいく出来に、我ながらあっぱれです。うまくいきました。そもそも私の載っている車がおんぼろ車ですから、失敗しても前よりは悪くならないだろうという前提があるわけです。従来の塗装がはがれてしまって、さらに下地まではがれていましたからね。それより悪くなりようがありません。

だいぶ前の塗料は、あ、やり方としてスプレーで塗料を吹きかけて塗装をしていくわけですが、自分でやるには難しかったようです。簡単そうに見えますが、なかなかきれいに仕上がらなかったみたいですよ。一度の吹つけで仕上げようとしても、そうは問屋が卸しません。色が付かないのです。同じところに吹き付けすぎると塗料が垂れて失敗。やり直しです。

だから、何度かに分けて塗装していくのです。薄く吹き付けて乾くのを待つ。乾いたらまた吹き付ける。その前に下地材なんかを吹き付けておいたりするわけです。まあ手間がかかります。乾いて吹き付けての繰り返しを5回ほど。満足できるくらいきれいに仕上がりました。今の塗料はよくできていて、多少吹き付けすぎても垂れてきません。何回か危なく垂れるギリギリまで行っちゃってますから。

やっぱりたいがいのことはやれば自分でできるんですよね。もちろんお金をかけてプロに任せればそちらの方がきれいにいきますが、そうでもない時は自分である程度のところまでは持っていけます。つまり手間をとるか、お金を取るか、なんですね。もっと大切な時間を取るか、も入ってきます。そこのバランスを見て各々が判断すればいいんですね。

わたしのおすすめとして、自分でできそうなことはチャレンジしてみるのがいいと思うよ、ということです。学ぶことがたくさんあります。

7/30/2015

スニッカーズ

「公」と「私」はきっちり分けなくてもいいのかもしれません。わたしは分けようとはしていません。今のところ、「公私混同」で行きたいと思っています。一人の人間だし、きっちり分けようと思ってもきっちり分けられないような気がしますし、分けない方が楽しいんじゃないかな。

「公」は例えば仕事です。「私」は例えば趣味です。つまり何らかの形で趣味が仕事とリンクすればいいな、楽しいな、と言うことです。と言うより強い興味を持てるものの方が質の高い仕事ができると思います。もちろん需要がないといけないけれど、この世の中不思議と需要はあるのです。

なんというか、でも最初から「趣味を仕事に」をキーワードみたいにしてそこに向かってやっているわけでもないんですよね。趣味で面白がりながらやっていたら、いつの間にか仕事にもなっていたぞ、って感じなのかなあ。漠然と想像しています。

「そういえばあの人何が本業なの?」という感じが今わたしの想像している後々の姿です。大枠のみですがつまりそういうことです。みうらじゅんさんが「おれは“など”を主にやっているんだよね」とおっしゃっていて、なるほどすっきりしました。

面白がりながら生きていると、自然に「公私混同」になっていくのかもしれないね。そして、それでいいんだよね。

7/29/2015

水まんじゅう

昨日久々にランニングをしました。暑さも相まってほとんど身体が動きませんでした。いつも走っているランニングコースなのに永遠に長く感じました。ランニングのリズムもおかしくって身体が乗ってきません。まあしょうがないですね。8月になればまた変わってくるでしょう。

話しかわって、わたしは毎日通勤中に「FRIENDS」という昔日本でも放送していたアメリカのコメディドラマを見ています。行に一話帰りに一話。久々に見たり、英語から遠ざかっていた時に見るとほとんど聞き取れないものですが、ある程度聞き続けているとなんとなく耳に入ってくるようになるから不思議です。

語学にもリズムがあります。英語のリズムスペイン語のリズムイタリア語のリズム日本語のリズム。わたしたちは普段特に意識せず日本語を話していますが(当たり前です。意識的に日本語を話す日本人はいません)、日本語にも独自のリズムがあります。“間”と言い換えてもいいかもしれません(芸人さんや政治家さんなんかは普段からかなり意識しているところでしょう)。これを習得するのにはある程度の時間が必要です。

なにも“間”を自在に操れるようになれなどとは申しませんし、その必要もありません。リズムだとか“間”が聞いているうちにわかってくると、第二言語や第三言語でも聞けるようになるのです。あとは意味が分からない単語や熟語、文法なんかを勉強すればいいだけです。実はそれも回数をこなして聞いていればなんとなくわかってくる部分ではあるのですがね。

各言語に存在するリズムや“間”は、その国の音楽、ひいてはくらしのリズムなのかもしれません。その辺も意識して見て聴いてみるととても面白いです。同じ英語やスペイン語を話す国でも、各地域によってリズムや“間”が全然違いますからね。

7/28/2015

ハリボー

今夏の身体に徐々に徐々にシフトしようとしている時期で、一番身体がだるくなりやすい時間でもあります。8月に入れば幾分落ち着いて(ほとんどあきらめに近いけれど)、夏本番を真正面から受け止められる身体になります。そしてわたしはヨーロッパとアメリカの時間にも対応できる身体にシフトしていきます。2つのフットボールシーズンの開幕までもうわずかばかりです。

それはそれは辛い寝不足の始まりです。わたしの贔屓にしているスペインのチームの試合は日本時間の深夜2:00頃キックオフというパターンが多く、NFLの場合もそうです。この辺の時間帯の試合が一番難しい。一度寝て、起きて観てまた少し寝る。という感じがベストなのですが、寝られなかった場合は眠い目をこすりながらフットボールの場合は4:00まで起きていなければいけないし、NFLの場合はそれよりも1時間長く起きていなければいけないことが多いです。

「見なければいいじゃないか」は愚の骨頂のような文句です。わたしは一年間それを楽しみに生きがいにしている人間ですから、観ないという選択肢はあり得ません。つまりフットボールを中心に生活を送りたいし、ゆくゆくはそうするつもりです。いっそヨーロッパかアメリカに移住してしまおうかしらん。それは現実的に真剣な取り組みの一つで、起こりうる事象です。

いまはもう新シーズンに向けて感情がはちきれんばかりにたまってきています。本当に開幕が楽しみです。そして、11月に友人とアンダルシアにも行く予定です。現地で観戦できます。これほどの楽しみはない。移住の足掛かりをつくるいいチャンスでもあります。

開幕まではあと2~3週間ほど我慢。心も身体も熱くなる季節の始まりです。

7/27/2015

雪見だいふく

夜は考え事をせずに寝る、と決めているのですが、一度動き出してしまった頭を止めるのにはなかなか骨が折れます。昨日の夜がそうでした。こうなったら覚悟を決めてとことん考えてやろうじゃないか、とも思いましたがそれはやめておきました。というより、昨日の夜は「All you need is love」に救われました。大切なのはそこなのかなと思えました。

政治だとかのことに頭を悩まされかけていたのです。今の日本は転換期に来ているようですから、気になってしまいます。それ自体は問題ではありません。むしろ勉強するべきだとも思います。でもね、わたしはあえて距離を置くことにしました。

もう少し自分のやることに集中したい。そこからそっちの方向にことが進めばそれを見るし聞く、という風でいたい。何が本当かわからなくなりかけています。だからこそ、自分で見たもの聴いたもの触れたもの感じたものをベースにしたい。そのベースをしっかりさせたいのです。

“There's nothing you can do that can't be done. Nothing you can sing that can't be sung. Nothing you can say but you can learn how to play the game, it's easy...All you need is love..."
“出来ないことはできないし、歌えない歌は歌えない。でもゲームのしかたは学べる。簡単なことさ。愛こそすべてなんだ。”

そういうことです。

7/26/2015

マーズバー

知っているつもりだったことに、つまり本当は知らなかったことに出会うことが増えています。それも本当にそうなのかまだ確信はできないけれど、本当の方向はこちらだよ、というようなことが見えてきたように感じるのです。

知ったかぶりとはちがいます。人に自慢げに言うようなことはないし、ただただ自分のなかで「こういうこと」と意識せず、無意識に固まっていたものがほろほろと崩れていっているのです。人間は意識してみてきたことが、無意識に根付いてそれが固まっていきます。そうなると、そう簡単にはその無意識の領域には意識がいかないものです。

なんだかぐちゃぐちゃになりそうなこんがらがった言い方ですが、意識的に無意識を意識しないと心の底はかわりません。無意識を意識的に疑てみないと、新たな発見はできません。それが外からやってくることもあるけれど、大体の場合内側を掘り起こして耕さないといい土壌にはならないし、芽も出てきません。

「知っている」と思っている状態は、無知より怖い場合が少なからずあります。ソクラテスの有名な「無知の知」もそこを気が付かせてくれます。もちろん、ある程度「知っている」がないと生きてゆくことすらできませんが、「知っている」を疑ってみると思わぬ発見ができるものです。

でもね、これをあれかもしれないんだけれどね、「知っている」にも「知らない」にも正解はないんだ。

7/25/2015

鹿の子

「男って単純」という文句はよく聞きます。ええ、確かに単純です。子どもを見ていればわかる。女の子の方が精神的に大人になるのが早いです。マセている。男の子は大人になっても男の子な人が多いし、男の子な部分は残しておきたいとも思っています。

しかし、動物的に見てみると女性の方がより野性的、本能的な気がします。メスらしい、とでも言いましょうか。例えば、小中学生くらいの時に、ブサイクでもちょっと周りより運動神経がいい子とか足が速い男の子がモテるのは、動物的に強いと判断しているからでしょう。思春期あたりのヤンキーがモテる現象も同じような感じですよね。

そして結婚を意識するような年になってくると、お金を持っている人や家庭を大事にするだろう人が重宝され始まる。これは、自分と子供(子孫)を捨てずに守り育ててくれるか、という基準で判断しているように思えます。それでも浮気する男性がモテるのは精力的強者だからじゃないでしょうか。男性ホルモンの分泌が多い人ともいえると思います。

いっぽうの男性は、女性をどのように判断しているか。まず顔でしょうね。しかし、所謂美人でも動物的に優れているとは限りません(動物的に、身体的に優れている個体を古くから美人として認識するように進化してきた可能性もあるので何とも言えませんが)。次に身体的特徴です。おっぱいが大きい人は人気があります。おしりがふっくらしている人も人気がありますね。これは女性ホルモンのエストロゲンの分泌量が関係していると言われていて、女性らしさの象徴だからおっぱいが大きい人やおしりがいい形の人がモテるという説が一般的です。貧乳好きというのは、生存競争のなかで自分の子孫を残すために他とは違う方向に行ったオスの進化ともみられると思います。

男性も女性も野性的なところはまだまだありますが(動物ですから当たり前ですが)、こうみるとどうも女性の方が自分の子孫を残すというところで野性的で抜け目ない気がします。複雑に見える女性の心理も動物的見地に立って見てみると案外男性より単純かもしれません。

随分と長くなったのでこの辺で今日はおしまい。

7/24/2015

パンプキンパイ

わたしはたまにカレーが無性に食べたくなります。カレーが食べたい!と言って食べに行くのですが、「カレーライスを食べる」というのはあくまで口実でしかないのです。本当は福神漬けが食べたい。それもカレーライスに乗っている福神漬けが食べたくなるのです。

福神漬け本体だけで食べることはありません。それに家のカレーには福神漬けはついてきませんから、自然と食べに行くことになります。ある一定期間が立つと福神漬けを食べたくなるのですね。言ってみれば、「ビーチに行く」というのは口実で、本当はビキニの女の子が見たい、といった具合です。

ほかにも口実シリーズはあります。わたしはよく日光浴をしに土手に行くのですが、この日光浴も時として口実にすぎません。一人でのんびりと読書をしたいのです。日光浴はどちらかというとおまけ。スーパーの会計後の福引のような感覚です。あればラッキーだけど、なくても困らない。

わたし自身がきがついていないだけでほかにも口実はあるかもしれません。しかし今この瞬間は探している時間がありません。いつもより少しだけ遅く起きてしまったから、朝の余裕がない。あゝ弁当を作らないと。それではまた明日。今日はカレーライスを食べに行こうかしらん。そう、福神漬けね。

7/23/2015

わたあめ

朝起きてお弁当を作り、このブログを書き仕事に向かう。帰ってくれば洗い物をし夕飯を食べ風呂に入り、風呂上がりのストレッチとマッサージをして就寝する。厳密に言えば、新聞や本を読んだりもしている。最近生活リズムがいい具合だと感じていた。でも実は、何も行動していない自分がそこにはいた。

人それぞれ“生”への価値観を持っている。それは“死”への価値観を持つことにもつながる。わたしは何もせず死にたくはない。そのために日々過ごしているのだが、そこがうまくいかない。日々を生きるために日々を生きてしまうのだ。わたしの価値観では、これではいけないのだ。少なくとも今この“若い”時期は。

とにかくあちらこちらに行動して走り回らなければいけない。現地に行って当人に会って話して聞いて感じなければならない。これは小学校に通学するような義務感ではなく、プロフットボーラーが練習に行くような義務感なのだ。理由は何であれ身体の奥底には好きでやっている、面白いからやっている、というのがある。

若いうちにたくさんのものをみて触れて感じて、自分の存在について考えた方がいい。エネルギッシュなときにぶちのめされた方がいい。それでも「なにくそ!」となれたものをやっていくのがいいんじゃないか。苦労しなかったり、ぶちのめされない選択などつまらない。景色が変わるから美しいんだ。

人は死ぬ。これだけは決まっていて、偉い人も悪い人も大人も子どももみんないつかは死ぬ。そこまでにどれだけこの“生”を全うできるか。今はめらめらと熱いくらいに燃やしておきたい。

7/22/2015

カエルチョコ

「覚悟」しているつもりだったのだけれど、できていないことがあった。この三連休で友人から教えてもらって、なんだか腑に落ちて少し楽になった。

「好きなことをやる」というのは難しいことかもしれない。それを仕事にしよう、というのはなおさらだったりする。でもわたしはそこにチャレンジしていきたいし、出来るとも思っている。いや、自分はやらなきゃいけないと思っているんだ。

きっとさまざまな人からいろいろな目で見られるだろうし、それらしい説教もされるだろうと思う。それはいいのだ。それにはもうほとんど慣れてしまったし、ある程度耳を塞ぐ能力は体得した。そしてみんなから好かれることをあきらめる「覚悟」はできている。頭ではなく身体で知ったことだから、間違いない。

結婚願望がある。しかし、相手の女性は苦労するだろうな。「覚悟」が必要だろうな。と思っていた。それは間違いない。誰かと結婚する時に「覚悟」が要らないなんてことはないんじゃないかと想像する。でも、友人が「女性はもちろんだけど、お前も同じくらいの覚悟が必要になると思うよ。」と言った。

わたしは自分自身の覚悟をこの時だけいつも棚に上げていた。「相手は辛い思いをすることがあるだろうなあ。」とばかり考えて、自分自身の覚悟を忘れていたのだ。これも頭ではできているつもりだったけれど、実際は違かったのだ。相手ばかりが「覚悟」が必要で、もう一方にはそれほど必要ないなんてことがあるわけがない。お互いに同じだけ必要なものなのだ。

同じだけ苦労して同じだけ笑うものだし、同じだけお腹が減って同じだけお腹いっぱいになればいいんだ。

7/21/2015

雲平

この3連休、それはそれは移動しました。あえて面倒で大変な方法での移動でしたから疲れもあります。でも、充実感の方が勝っています。本当に新しいことをたくさん知ることが出来ましたから。いつだって知らない土地や初めてのことをするのは楽しいものです。

とにかくひたすら車での移動でした。初めてくるまで300㎞以上の移動をしたのですが、人間やってみないと分からないもの、すんごく楽しかった。田舎道や山道を前へ前へ進んでいきます。山道ではこの時期でも涼しい風が吹いていますし、のぼりの後にはくだりがあります。山のふもとには町があり人間が集まって街を作っています。山を越えるたびに街があります。

関西にもはじめていきました。関東とはやはりメンタリティが違いますね。車で走っていると、その土地その土地で微妙にニュアンスが変わってきます。そそっかしいところもあれば、少しでも前へ行こうとする生き残る活力も感じました。

あと、大阪は美人が多かった。スタイルのいい人もたくさんいましたが、顔が綺麗な人がたくさんいました。大阪の男性は得しています。うらやましいうらやましい。

以上、海の日三連休雑記でした。

7/20/2015

サバラン

この三連休をわたしは一人暮らしをする友人二人のところで過ごしました。二人ともちゃんと生活していたし、同時に苦労もしていました。そして二人とも生きることだとか、人生だとかについて考えていました。

昔の人は本当に人間の心と身体をよく知っていると思います。男性24歳の厄年は、厄がある災いが降りかかる、ということもあるでしょうが、これはきっと心の変化、不安や動揺などの揺れ動きが激しくなり、それとお同時に身体も少しずつ大人の男に変化していくときなんだと思うのです。だから不安定になる。そういうことを厄年として伝えているように感じます。

たしかにみな不安定になります。漠然とした将来に対する不安や現状と理想との間の葛藤、社会にでるとうまくいかないことだらけです。そんな時、そこに話を聞いてくれる人がいることで救われる場面はたくさんあります。思っていることや考えていることを聞いてもらえるだけで、すっきりすることがあります。

わたしはおしゃべりな人間ですから、気の置けない友人にはペラペラとなんでも話してしまいます。そこで自分の考えや思いを整理している部分は多分にあるし、話すことで新たな結論が出てくることもあるんです。人間はひとと話すことで凝り固まった自分のからをほろほろと剥きはがして行く動物なのでしょう。そうしないと自分の中の自分がどんどん大きくなってついには自分自身に飲み込まれてしまいかねません。

思考を整理する意味でも、単に人間の温かみを感じる意味でも、人と話すことは大切です。心がホっとします。

7/19/2015

あんころ餅

わたしの友人が、「読書をする人は少なからず俗世間や自分や今の状態に不満を持っている人なんじゃないかな。」と言ったのです。そして「反対に本を読まない人は現状に満足できている人なんだと思う。だから本を読んで違った世界に行く必要がないんだ。」とも言ったのでした。たしかにそうだなあ。
 
わたしの場合も、藁にもすがるような思いで本を読み始めたのがきっかけだし、それも現状に漠然とした不安だとか不満だとかがあったからでした。それまでは全く本を読まない人間でしたからね。今現在自分が読むようになったからでしょうが、本当に本を読むようになってよかったと思っています。
 
でもね、ここには注意点があると思うんです。本で読んだものをあたかも自分で発見して生み出した考えだと勘違いしてしまう危険性があるのです。つまり、自分で考える力をそぐ危険性が読書には実はあるのではないかと思います。巷で言われていることとは反対のことを言っていることは承知の上です。
 
これは実体験に基づいていますから、的外れなことではないと思います。本を読むことで考える力が付くことは確かです。でもそれは読み方によるのですね。上で述べた勘違いも読み方次第です。一度考える時間が必要なのかもしれません。短いとか長いとかは人それぞれなので問題ではありませんが、要は鵜呑みにしてはいけないのです。
 
「学びてときに之を習う。亦説ばしからずや。」孔子の言葉です。学んだことを折に触れて復習し身に付けることは喜ばしいことです、という意味ですが、これもつまりはきちんと時間をおいて考えることをしなさいということと変わりないと思います。
 
なんでもそうですが、これをすればこうなる、ということは人間にはそうそうないんです。

7/18/2015

ミルクレープ

昨日の夜随分と車で走りました。海沿いを走り、山も越えました。そして今日もまた走ります。これだけ車で移動するのは初めてです。一人です。道を間違えたりしながら目的地に着くのはいいです。知ってはいるけど、行ったら帰ってこなきゃいけないんですよね。今からそれもちゃんと考えるようにしています。

目的地に着く、というそれはそれで素晴らしいことです。単純な物理的な移動でも、目的地に着けば一つ目標達成です。でもこれは一つ目だと思います。事故や怪我なくそこに着けたら喜ばしいことです。ただ、大切なのはそこで何ができるかなんだと思います。

何かする場所に着いた、という感覚でいると安心することなく次の行動に進めます。そのうちそこが「駅」みたいな場所になるかもしれません。途中立ち寄った「駅」です。そこから先に行ってある程度進んだ時に、その「駅」が帰る場所になっていたら幸せです。

今日もわたしは新しいところに行きます。それはなんであろうとワクワクすることです。でもそれは帰るところがあるからなのかもしれません。そこがあるから冒険できるのかもしれません。

時間ですので今朝はこの辺で。今日も安全運転で行きましょう。

7/17/2015

瓦せんべい

旅行とか旅とかは計画しているときが本当に楽しいものですよね。頭の中で想像を膨らませて、ここに行こうこれを観ようこれを食べよう、とやるわけです。これは本当に楽しい。実際に想像と違いがないなんてことはないのだけれど、それはやっておくべき作業でしょう。やらずにはいられないんだけれどね。

毎日そうやって過ごすのはとても難しいしそれがいいのか今は分からないけれど、「こういう感じになっていったらいいなあ」「こういう感じにしていこう」と想像しながら仕事が出来たらいいよね。それはちゃんと仕事を楽しめているってことに違いないと思います。

以前「ヨルタモリ」の小話をここでした際に、「面白がる」ってことについて書きました。それを今つくづく思っています。仕事も家族も、生きることも「面白がる」ができる、自然に「面白がる」人間になろうと思っています。

わたしはひとつの基準として「子どもが笑顔でいられる」ことを考えています。それで気が付いたんだけれど、「子どもが笑顔でいられる」には「大人が笑顔でいる」ことが大切だということです。面白そうにしている大人がいれば、子どもも面白そうにするものです。子どもはちゃんと見ているんですよね。

ここが、生まれてきた「子どもが笑顔でいられる」ところであるように、と願いつつ。

7/16/2015

マロングラッセ

雨が強く降っています。昨日、車の窓を少し開けたままにしてしまいました。まずいことをしたなあ。びしょ濡れかなあ。台風の雨、明日だと思っていました。天気予報は毎日確認するべき、という勉強になりました。

季節がかわります。梅雨のじとじとを洗い流す雨だと感じます。この台風が過ぎれば夏到来でしょう。海にも山にも行きたいなあ。今年はきっちり日焼けできるかな。去年はね、わたし剣岳でひと夏まるっきり過ごしたんです。だから30℃以上の日を体験しなかったんですね。それはいい経験でした。

山に自分の意志で行ったのは去年が初めてでした。幼いころ家族でちょっと登ってすぐ降りてこられるところには行ったことがありましたが、本格的に残雪があったりもうほとんど崖のような所を歩くことは初めてでした。「ここ脚踏み外したら死ぬな。」なんて初めての感覚でしたから、それはそれで新鮮でした。

なによりも気持ちがいいんです。あの辺には実は氷河があるし、水が美味い。だから米が美味い。富山の人は毎日それを食べているから、わたしがウマいウマいと感動しているとみなさんキョトンとされていました。おかげで山小屋にいる3か月間でずいぶん太ったものね。

それもあって天気の悪い日を除いて毎日散歩をするようにしていたのだけれど、その散歩がこれまたなかなかいいわけです。標高2400m位のところを登ったり降りたりするわけですからただの散歩じゃありません。いつもお決まりのコースの行き着いた先で、山を眺めながらする読書もまた格別でした。

海もいいけど山もね、どうぞよろしく。

7/15/2015

千歳飴

面倒くさいと思った時がチャンスだったりする。ダルいからまた明日やろう、と思った時がチャンスだったりする。そういうものだ、と自分に言い聞かせている。まさに今がそうです。

昨日うとうととしてしまい気が付けば深夜2:00。あゝやってしまった。と思うわけです。こういう時は朝も眠くって今もうとうとしています。でもこういう時に来たチャンスというか、機会を逃したくないからその訓練として、ちゃんと書こうと思っているところは十分にあります。

「明日野郎は馬鹿野郎」なんていう人もいます。そうかもしれません。その時にしか人間生きられませんから、思った時がベストタイミングなんです。その軽いフットワークで、面倒くさいという感情の裏側にいるチャンスを見逃さないようにしたいものです。

洗濯もちゃんとしよう。掃除もちゃんとしよう。気が付いた時に片付けよう。そうやっていれば、いざ動くとき!に「あ、着る服がない」とか「あれどこにあったっけ」なんてことにならずに済みます。もちろんこれは極端な比喩だけれどね。

面倒くさいの裏に、必ずチャンスがあるよ。だから、面倒くさいと思った時がチャンスなんだ。

7/14/2015

キャラメルポップコーン

例えばスカートが風にあおられてひらりとめくれるとき、思わず目が行きます。例えば薄着の女性が前かがみになったとき、思わず目が行きます。ほぼ100%の男性がそうだと思います。もうこれは本能に近いようなクセじゃないかなあ。見ない様にしても、絶対に目が行ってしまうんだからどうしようもない。男の性です。

それでね、たぶんこれは見えないから見ようとしてしまうんだと思うのです。スカートのひらりも、前かがみも、結局は大体見えない。それをわかっているけど、わかっているから、見ようとしてしまうんだと思うんです。“見えそうで見えない”だからいいのかもしれません。たまにだからいいのだけれど、全部が全部見えてしまったら背徳感もくそもないものね。ある意味興ざめするんです。

もしかしたらこれは、自分の目指すところとかこういう風にありたい、こう生きたい、っていうのにも通じる部分があるかもしれない。つまり、“見えそうで見えない”ってことです。思い描く像は風が吹いたり前かがみになると、見えそうになるんです。たしかにおぼろげに「見えるかも」と思うわけです。

でもね、大体は見えないんだ。「うーんダメか。」なんですよね。しかし見えそうだからまた見ようとしてしまうのです。相手はちゃんと見られていることに気が付いているんだけどね。

見えたときに自分がどうなるのかはわからない。案外普段の生活と何も変わらないかもしれないし、ちょっとだけ得した気分になるかもしれないし、ちょっとだけ損した気分になるかもしれない。結局これも、“見えそうで見えない”んだ。

7/13/2015

えびせん

わりあい最近は日本的なこと、和風なものについて考えてきたのですが、私自身小さいころからアメリカの影響をものすごく受けて育ってきました。そう、昨日気が付きました。

わたしの家族は全員ディズニー大好き。毎年必ず2回は家族旅行でディズニーランドに遊びに行っていました。私自身ももちろん大好きで、今でも両パーク通じて年間5回ほどは遊びに行きます。たぶん私の外国への憧れの出発点はここなのです。

中学生時代は、みんなと一緒はいやだという性格も相まって洋楽を聞くようになり(そこから邦楽をほとんど聞かなくなってしまったので、カラオケでは歌える曲が少ないです)、ディズニーチャンネルのドラマを観て、アメリカ人はなんて面白そうな生活を送っているんだろう、と日々アメリカ(海外)への憧れとその時の生活とのギャップにわけもなく苦しんでいました。

そして、今年の3月に大好きなディズニーの本家本元であるカリフォルニアのディズニーリゾートに行ってきました。夢にまで見たアメリカ、本場のディズニーランドは思っていたほどすごい!って感じじゃなかったけれど、思っていた以上に心躍る体験でした。

人それぞれ、憧れの地とか夢の場所ってあると思います。それは行ってみたら大したことないかもしれない。でも、それでいいと思うんです。いいとか悪いじゃないんだよね。生きる活力そのものだったりするんじゃないかな。

7/12/2015

メレンゲ

昨日シャワーを浴びていたら、ふと「手放す」というワードが頭に浮かんできました。それは唐突で、何の関連性もなく出てきたものだったと思います。ひらめいた感じでした。それからしばらく「手放す」について考えたのです。

よく、欲しいものがあったら何か手放しなさい、そうすればそれが入ってくる、というような言葉を目にするし耳にします。なにかを「手放す」覚悟がないと、入ってくる余地がないというようなことでしょうか。考えてみれば、お金なんかもそうかもしれません。もちろん財産という意味では出ていくお金よりもとっておくお金の方が多くないと貯まりませんから、その辺はバランスですが、たしかに「手放す」ことで入ってくる気もします。

「かわいい子には旅をさせよ」ということわざも、こういった意味合いもあるかもしれません。目に入れても痛くない我が子であるからこそ、「手放す」ことで親も子も得ることがあるんでしょう。“子”が比喩であるという見方も十分できますよね。

そして私は今、“時間”を「手放す」訓練をしてみようと思っています。やっぱり時間が欲しいです。だから「手放す」をここにも活用してみます。きっと“時間”そのものとしてではなく、また違った形でかえってくることをいつか気が付ければいいです。とりあえず、やることやらなきゃね。取り急ぎこれにてご免。

7/11/2015

焼酎もなか

ヒゲの地位向上に努めたいと思っています。日本では割と嫌われていますから。働こう、となったら髭は剃らなきゃいけないらしい。でも髪の毛はあった方が好ましいらしい。「就活生」を見ていると、全員同じ人に見えてきます。それはさすがに言い過ぎですがね。でも、みんな同じような髪型やきれいに剃ったアゴやホホじゃなくてもよろしいじゃありませんか。

第一、髭は清潔感がなくてフレッシュマンには無い方がいい、とする傾向はいかがなものか。明治の要人の大体は髭面であったし(それもかなり長い人もたくさんいた。板垣退助と言えばヒゲを真っ先に思い出す人もすくなくないでしょ?)、それ以前の人たちも割とヒゲは生やしていた。いつからツルツルにするようになったのでしょうか。

わたしはヒゲをはやして、就職活動をしてもいいと思うのです。だってそれこそ個性じゃない?身体的特徴こそ個性だとわたしは考えていますから(精神だとか思考だとかは、周りの人から逸脱している人はほとんどいない。つまりそこに個性は見いだされない。いるとすれば精神科病棟かな)、背が低いだとか足が大きいだとか腕が長いだとかと同じように、ヒゲが生えているというのも個性として認められるべきものだと思いますよ。特に今“個性的”をもとめるところが多いんだもの。

とまあ書いてみたものの、結局は自分のスタイルを認めろ、と言っているようでだんだん情けなくなってきました(文面で分かると思いますが、わたしはヒゲをはやしていますし、ヒゲ大好きです)。しかし最後にもうひと押し、刃物を当てないから肌にもやさしいよ。

7/10/2015

ミートパイ

新しいどこかで活躍したい、新しい何かを始めたい。それじゃなくても思い描いていることをやりたい、と思ったら、今いる場所できちんと仕事をすることが大切だったりする。ちゃんと面白がれるようにしておく。そうすると、だんだんその先が面白くなってくるし、笑顔が増えてくると思う。

最終的に行き着くところは“人と人”だ。気持ちのいい人はやっぱり重宝される。相手も自分も気持ちがいいんだから当たり前か。だから、今いる場所できちんと仕事が出来なきゃいけない。そこでもちゃんと認めてもらえないとダメなんだ。いや、ダメってことはないかもしれないけど。

人に会って、話してみて人間は成長していくし成熟していく。どのタイミングでどの人に会うのか、それは自分次第。面白がってやっていると、周りから面白い人を紹介してもらえたりする。自分の「環」が広がる。いつでもどこでも行かれる心と身体を作っておかないとそれはできない。そのためのお金も必要だったりする。

もちろん人に会ったり、新しい何かをはじめたりすれば気苦労も多くなるし、今まで出会わなかったような大きな壁や厚い壁に出くわすかもしれない。毒を持った生物なんかもいるかも。でも、それも面白がれたら一番いい。そりゃつらい、苦しいけど、心のどこかでニヤニヤできたらいいと思う。

思い描く何かがあるなら、今日もきちんと生きましょう。

7/09/2015

柿の種

今欧州のフットボールは束の間のオフシーズンを迎えています。この間に選手が移籍したり、監督が入れ替わったり、新たなシーズンに向けて各チームが各々戦力を整えます。サポーターたちにとっても、試合のないこの時期はオフシーズンで、新シーズンの開幕をうずうずしながら待っています。例にもれず、わたしもその一人です。

NFLも現在はオフシーズン。こちらはフットボールに比べるとシーズンが短いので、その分オフシーズンも長く、“うずうず”の期間も長いのです。レギュラーシーズンのホームゲームは各チーム8試合しかありませんから、いつもスタジアムは超満員だし、テレビの生放送も絶対に見逃せません。溜まっていた“うずうず”が一気に爆発します。

「大好きなこと」は一年中やっていても、一生続けていても飽きないという話があるけれど、わたしは違うと思います。大好きだからこそ“うずうず”の期間を定期的に設けた方がいい。大好きだからこそ少し離れる期間があっていいと思うのです。情熱っていうのは四六時中はもたないもので、充電が必要なものです。

“うずうず”期をもうけて、そのことで頭がいっぱい、もうたまらないようになればそれは大好きなことなんだと思うし、それをやるのにいい時期に入ったということだと思います。ある意味これも一種の“寝かせる”だよね。

今シーズンの欧州フットボールはいつもよりちと早い8月半ばの開幕、NFLはプレシーズンが8月頭に始まる。それまでは両方のフットボールはお預け。存分に“うずうず”します。

7/08/2015

クラッカー

更新のタイミングを朝に変えます。できるだけこのくらいの時間に更新していきます。

以前も「朝」に関しては何度か触れていますが、人間にとって一番いい時間かもしれません。その日で一番フレッシュな時間だし、始まりです。「早起きは三文の徳」なんてことわざもあります。早起きすれば、大きな徳ではないけれど、“三文”くらいの小さな徳だとか喜びがありますよ、ということです。昔の人々が肌で感じてきた言葉ですから、説得力があります。

夜書いたものは、やっぱりなんだか気持ち悪さも入り込んでしまいますね。それを書いたのは間違いなく自分で、そこも自分のある一面なのですが、朝見ると白々しくも「よくこんなことが書けたなあ」と思ってしまいます。でも、夜の文も嫌いじゃないんですよ。むしろ好きです。それはそれで面白い。

「朝活」などという言葉も巷では流行っていますが、時間のない(と錯覚してしまうくらい忙しく働きまわっている)人々にこそ、朝は貴重な時間です。わたしは最近積極的に“朝飯前”を作り出していて、出来るだけ“朝飯前”で用事を済ませるようにしています。最近読んだある本の影響を受けてなのですが、これはなかなかいいです。スムースに物事が進む感じはあります。“朝飯後”よりむしろ頭は冴えています。

つらつらと書き連ねましたが、これからは出来るだけこの時間に更新しますよ、というご報告でした。

7/07/2015

水あめ

昨日、気が付いたことがあります。わたしの部屋にはコルクボードが壁にかけてあって、そこに「ここは是非行きたいなあ」と思うところの写真やなんかを、雑誌から切り抜いて張っていたのです。もうかれこれ5年ほど前にね。それを昨日見つけたんです。というか、いつもそこにあったのですが全く意識していなかったのです。しかしああそういえばこんなもの張っていたなと見直してみると、

どうでしょう。張ってある写真の9割近くの場所にすでに行っていたのです。これには驚きました。もうすっかり忘れていたのに、そこには、ヴェネツィアの運河、フィレンツェの街並み、トレヴィの泉、サン・シーロ、メルウッド(リヴァプールFCの練習場)、チェチェン・イッツァ、カリフォルニアディズニーランド。知らず知らずのうちにこれらすべてに訪れていたのです。

確かに、わたしは中学生の頃から「将来はイタリアに行く!」と本気で友達に話していました。そして20歳の年にイタリアに1年間行くことになり、その時に友達から「中学校の時そう言っていたけど、本当にイタリア行くなんて思わなかった」と言われて、このことも思い出したんです。

何の根拠もなく、「ここに行く!」「こうなる!」と言うことは大切かもしれません。不思議とそういう風になっていきます。自分がそうだから、このこと関しては確信を持って言えます。子どものような無垢な心で信じることも、道を切り開く一つの大切な力なのかもしれません。

わたしはまたコルクボードの切り抜き張りを始めます。想像しながら切り抜いていると、ワクワクしちゃいますからね。

7/05/2015

ボンボン

何かわからないことがあったり、考えていることがあったりしたら、一度「寝かせてみる」ことです。ずっと考えていてもわからなかったり解決しなかったことが、寝かせておくとある日急に解決してしまうことがあると思います。ひらめきみたいにね。

それともう一つ、これは依然どこかのタイミングで書いたと思いますが、夜考え事なんかをしたときも、一晩「寝かせる」のが得策でしょう。例えば、夜のうちになんだか感傷的になって送ったメールを朝起きて見てみると、目も当てられないような内容だった、なんてことが一度はあるんじゃないでしょうか。これは、朝が一番フラットな状態であるということと夜が特に情緒不安定であるということが重なった結果です。

欲しいものも、一度「寝かせる」ことは効果的です。散財しなくなります。買いたいな、と思ったものがあったら一度寝かせる。それでも欲しい必要だ、ということであればもう一度寝かせる。それでもまだ疑問の余地なく欲しい必要だ、と心が叫べば買う。これも、朝起きたときに欲しいのか欲しくないのか考えるのが効果的です。

つまり、物事が自分の中で成熟するのを待つのです。寝かせて成熟を待つ間にも、いろんなことを考えたり本を読んだり現場に行ったり人に会ったりして様々なエッセンスを知らず知らず加えます。そうするとある日「あ、なるほどこういうことかも知れない」とみごと成熟します。形になります。

焦って作ってもおいしいお酒やワインはできませんし、漬物もうまく浸かりません。「寝かせる」ことでおいしくなります。

7/04/2015

信玄餅

すこしでも「社会」というものに出てみると、実力以外のものの存在にいやでも気づかされます。それも含めて実力なわけですが、なにかと必要なものがあるんですよね。

今、“必要”と書いたけれど、どちらかというと“引出し”だとか“武器”だとかのほうが近いかもしれない。いや、戦うわけではないからなあ。“ご飯のおとも”が一番いいかもな。

例えば大好きな人を笑顔にしたいとき(言うなればこの場合はご飯を食べる人です)、ご飯である私は考えます。どうしたら笑顔になってくれるかな、と。お味噌汁と漬物だけがいいのかな、それともエビフライやハンバーグ、卵焼きにポテトサラダ、デザートまでつけた方がいいかな、ビビンパのように色んな具材が混ぜあわさった方が好きかもしれない。おじやもありだなあ。

一方は、ん~おれはおともが味噌汁と納豆しかいないから、誠意をつくしてそれでどうにか満足してもらおう。

この違いは大きいです。前者にはいろんな“おとも”がいます。その分、大好きな人を笑顔にするための選択肢は無数にあります。笑顔にできる可能性がその分増すんです。後者お方はその逆で、2人しか“おとも”がいません。選択肢が狭いですから、その分笑顔にできる可能性は減ります。

やっぱり可能性は高い方がいいですよね。その分自分がかかわれる領域が増すのですから、出来ることも当然増します。だから、そのためには“おとも”が多い方がいいのです。“おとも”が多い人は、その分満足した顔での”ごちそうさまでした“を聞くことができるのです。

ヌガー

毎日できるだけ以前食べたお菓子はかぶらない様にしよう、と心がけながら書いているのですが、本当にたくさんの種類のお菓子がこの地球上にはありますね。まだまだ食べていないお菓子がたくさんあります。聞いたことのないものもごまんとありますから、食いしん坊のわたしのお腹は好奇心でグーグーとなるのです。

今まで食べた中で、思い出深いお菓子といえば、まずは「五家宝」。物心のついた頃、おばあちゃんの家で初めて口にし、しょうげきを受けました。不思議な食感ときな粉のほのかな甘みが絶妙で(当時はそんなこと思わずウマいウマい、とバカみたいに食べていました)、たくさん食べてしまったせいで飽きてしまいました。久しぶりに食べたいなあ。

お次は「ザッハトルテ」。オーストラリアの代表的なお菓子で、濃厚なチョコレートをふんだんに使ったしっとりケーキです。今でもケーキ屋さんでザッハトルテがあれば、必ずそれにします。とにかくチョコレート(ビターなのが最高!)を品よく味わえるのがうれしいし、ズシっとヘビーなしっとり濃厚さがたまりません。

これは、好きなわけではないのだけれど、衝撃を受けたお菓子ということであげたいのが「カンノーロ」です。とにかく、甘ーい!もう喉がひりひり辛く感じるくらい甘いのです。これは、イタリアはシチリア島の名物お菓子で、筒状のカリッサクッっとした小麦粉の生地の中にリコッタチーズベースのクリームを詰めたお菓子です。このクリームが強烈に甘いんです。ピスタチオも入っていて、シチリアの魅力全開。興味のある方は是非お試しあれ。

明日からも、お菓子をどんどん食べていきます。食べすぎには注意注意。

7/03/2015

ももやま

新しい生活を始めると、自分なりの生活リズムを作るのに最初は苦労する、そのうち慣れてくればなんとなく一定のリズムができてくるものです。全世界の“リズム”をほんの少し狂わせることが先日ありました。新聞やテレビでも話題となっていました。

「うるう秒」というやつです。1秒だけ追加して、今後も時間を正確に刻めるようにした人類の知恵です。しかし、そこにはいろいろ問題があったようです。コンピュータ関係のトラブルがあるんだとか。2012年に「うるう秒」が挿入された時には、オーストラリアのカンタス航空で運行が遅れるなどのトラブルがあったそうです。サーバーに不具合が生じるようですね。詳しくは知りません。

そしてこのトラブルが問題視されているところが「市場」だったようです。でも、今回は事なきを得たそうです。そんなことから、「うるう秒」に関しては廃止しようという動きもあるようです。「時間」をコントロールすることは難しいですね。

そもそも、時間は人間が勝手に決めた概念です。何かと都合がいいので、採用しました。でも、世界を見渡せば、わたしたちの周りで使われている「時間」と違う「時間」を過ごしている人々もいます。日本でも「不定時法」を用いていた時は、一日の時間は日によって違いました。「明け六つ、暮れ六つ」という言葉を聞いたことのある方も多いでしょう。これは「不定時法」の時の時間の呼び名です。

「定時法」も「不定時法」もお互いメリットとデメリットがあります。どっちもどっちです。時を人間の都合に合わせて使うという発想にこそある程度無理が生じるのですからしょうがありません。そこを念頭に置いて、「時間」と上手に付き合いたいものです。

7/02/2015

ザッハトルテ

「反〇〇」には、あまりかかわらないようにしています。そういった目であたりを見回してみると、悲しいかな「反〇〇」にあふれています。これにはいろんな理由があると思うけれど、一番は、そうすることが一番“簡単”だからなんじゃないかな。

本を読むときに、特に評論に関しては、“批判的読み方”をすることで自己の思考力が鍛えられる、ということがよく言われています。“批判的読み方”や“批判的思考”は持ち合わせておくべきものだと思いますし、積極的に学校で教えるべき思考法であると思います。

この“批判的思考”というのと、「反〇〇」は違います。これを同じものとしてとらえてはいけません。批判というのは、評価をすることです。対象物の存在を論じるのです。全くマイナスな意味の言葉ではありません。しかし「反〇〇」というのは、対象物を“悪”にしてしまうのです。もはやその存在すら認めないようなところもあります。そして、自分を正当化するのにもとてもいいのです。

「反〇〇」の嫌なところは他にもあるのです。一緒じゃないかと思う人もいるかもしれませんが、ここが本質だとわたしは思っています。結局感情は「負」なのです。だからわたしは「戦争反対!」も口にしたくないし、そういう集会にも参加したくありません。だって、「俺は保育制度に反対するんだ!絶対に認めないんだ!」と言っている人と「子どもたちがこの国で生まれてよかったな、って思えるような国にみんなでしていきたいね」という人と、どちらが素敵かなあ。そして、この主張は両方とも一緒のことかなあ。

まだ出会っていくらも経っていない人に聞く「好きな〇〇は?」も、本当はみんなその方向で行きたいんだってことの表れじゃないかな。