8/31/2015

南蛮おるごおる

わたしが毎日欠かさずチェックしている大好きなコンテンツ、「ほぼ日刊イトイ新聞」の「今日のダーリン」という糸井さんの書いているエッセイのようなものがあります。今日の「今日のダーリン」にすごくうれしいことが書いてあったので、そのことについて少し書きたいと思います。

「大人って楽しい」んだと、わたしは常々思ってきましたし、これからもそうしていきます。「あの人なんだか楽しそうだよね」「ああいうのもいいね」って見られたらいいなあ、とも思っています。これはそうした結果、ってことですけれどね。

「大人は。苦労するゾ」「辛いことがたくさんあるんだよ」なんていう人もいます。たしかに苦労することも辛いこともたくさんあります。でも、大人の楽しさと言うのはそういうものもひっくるめて楽しいんじゃないかと思うんです。

こういえるのも、「この時代」に「この場所」に生まれたからでしょう。これは偶然でもあり必然でもあるように感じます。あくまで感覚的な話ですが。だからこそ、楽しまないとね。と思うのです。やってやろう。と思うのです。

以前にも書きましたが「面白がる」っていうことが、なんだかわたしのこれからのキーワードになってくる気がしています。それは「大人って楽しい」にもつながってくるところだと思います。これから「責任」なんかも増えてくるでしょう。それはどんどん面白くなってくるってことじゃないかとも、今のわたしは考えています。大きな責任がかかることほど、面白いんじゃないかなあ。

死んだあとのことは知りませんから、生きているうちは楽しんでいたいっていうのもありますよね。

8/30/2015

カーブ・ガゼル

「愛」と「Love」は違います。少なくともわたしはそう感じるしそうとらえています。どういうことかと言うと、言語が違うからです。何を今更当たり前のことを言っているんだ、とそう早まりなさるな。ちゃんと理由も用意してあります。

言語と言うのは文化そのものです。これはいつだったか前にもここで話したことがあります。その国の生活だとか習慣だとか、要するに“身から出た”ものが言語として発達していますから、それぞれの地域に特有の言語が発達します。

そして、その言語を外の人たちが理解するために「翻訳」というのが現れます。ほかの地域の言語を自分たちの言語に置き換えるわけです。これにはやっぱり無理が生じるんですよね。自分たちが持っている価値観では言い表せないものが出てくる。そもそも生活習慣も価値観も違う地域の人々が使う言語を自分たちが使う言語に置き換えようという発想自体、無理があるのです。

明治期にたくさんの新しい日本語が作られました。外国語を日本語に翻訳する形で作られたわけですが、その大体が漢字二文字で形成されています。「衛生」「社会」「存在」「自然」「権利」「自由」「憲法」「個人」「芸術」「経済」などがそれに当たります。この中には明治以前から日本語の中で使われていたものもありますが、少し違った意味で使われていたようです。そして「愛」も実はこの時期に生まれた新しい日本語です。

「愛」も元々は仏教用語として使われていましたが、明治期に入り西洋的な「Love」の意味として使われるようになったそうです。道理で肌になじまないわけですね。しかし「Love」やほかの西洋語の訳語として使用されてきた「愛」でさえ、「Love」とは意味合いが違います。肌感覚と言いましょうか、が明らかに違いますね。

先にも話した通り、生活習慣も価値観も違うわけですから使っていくうちに、その地域で使いやすいようにアレンジしていくものです。変化して根付くのですね。ここに言語を学ぶ面白さがあると思います。辞書ではわかりづらいのですが、現場に行くとより面白みがあります。

こうしてみると、やっぱり母語をきちんと使う、ということはすごく重要なんですよね。いつもと同じところに、行き着きました。

8/28/2015

おたくさ

わたし自身いつごろから、こんなにも天気や気温の話をするようになったのか、考えてみました。きっと週の大半を「仕事」をして過ごすようになってからなんじゃないかと思います。明日は雨じゃ「仕事になんないなあ」とか言ったりします。そんなに真剣にやってないくせにね。

お客さんだとか、反対にお店の人だとか、お仕事で初めて会う人と最初に交わす言葉って「いやー暑いですね。」「ずいぶん冷え込んできましたね」なんてことが多いですよね。なんだかもうあいさつの一部分であって、それは本当はどうでもいいことだったりするんです。

たぶん本筋に行く前に、共通認識というか、みんなが同じように感じ取っていることで確認していきたいってことも無意識にあるのかもしれません。天気だとか気温だとかはみんな平等に同じように感じ取るものですから、そこで一度「こうこうこうですね」「うん、そうですね」っていう拍子合わせというか、息合わせが必要なのかもしれません。

頻繁に会っている友人や家族恋人なんかにはこんな話、めったなことがないと最初にしたりしませんものね。初めて会う人や、すごく久しぶりに会う人なんかに使う、ある種の自己紹介兼相手の様子探りが天気や気温の話なんですね。

天気や気温以外で、これができる話題を考えてみるのも面白いかもしれません。

8/27/2015

アッシャベーキーヤ

世界陸上を見ています。フットボールがあるのでそれほどみっちり見ることはできませんが、毎日楽しみにしています。人間はこんなに速く走れるんだなあ、こんなに飛べるんだなあ、こんなに遠くに投げられるんだなあなんて感心しながら、観ています。

とにかく彼らはその競技をある程度の間やってきてあの場に立っているわけです。生まれながら足が速いのはどの選手も同じでしょうが、みんな運動神経がいい人たちなんだと思います。わたしの言う「運動神経のいい人」というのは、足が速いだとか、遠くまで飛べるとか、そういうことではありません。

いつだったか、タレントの武井壮さんがこんなことをおっしゃっていました。「頭で思い描いた通りに身体を動かすことをできるようになることが、大切です。」と。わたしの言う「運動神経のいい人」というのは、まさにそういう人のことです。

周りに必ず1人はいるのではないでしょうか、何をやらせてもすぐにできるようになってしまう人。そういう人が本当の「運動神経のいい人」なのです。野球をやっても頭で思い描いた通りにバットを振ればボールが当たりますし、投げる時もストライクに入ります。まずそこがベースにあって、筋力をアップさせてパワーをつけるわけです。

人間ですから、運動神経がよくなくてもひたすら反復していればできるようになります。でも新しいことをやろうとすると、先ほど述べた“ベース”の部分が出来ていないから、また反復練習をひたすらしなければいけないのです。

「頭と体の距離」をできるだけ近づけるように、普段から生活していれば、おのずと運動神経は向上します。歩くことひとつをとってもそうです。むしろ歩くことは運動の基本ですから、そこから意識していくことは大変重要なことです。

世界陸上に出ているアスリートたちはみな「頭と身体の距離」が限りなく近い人ばかりです。のびやかな身体、しなやかな筋肉、躍動する肉体、見どころ満載ですから、こんなことも頭の片隅に置いて観てみてはいかがでしょうか。

あ、そうそう、“頭でイメージする能力”も含めて、「運動神経のいい人」ですからね。

8/26/2015

シースケーキ

例えば、競馬が大好きな人は競馬で稼いだお金を競馬で使います。例えば、スロットが大好きな人はスロットで稼いだお金をスロットで使います。FXが大好きな人もFXで稼いだお金をFXで使います。そこでは、「お金を稼ぐ」ということが目的ではなくなっています。「一攫千金を狙う」ということをみんなやっているんだけど、そのこと自体にハマってしまっているんですね。もはやお金はどうでもいいとまでは言えないけれど、その近く周辺ではあるんだと思います。

身体を鍛えている人なんかもそうかもしれません。ある程度身体が引きしまてきても、そこでそれを終えることはなくって、どんどん進めていきます。身体を鍛えること自体を楽しみとして感じ取っているのでしょう。そこに当初の目的であったはずの“引き締まった身体”はあるのですが、そこはもはやおまけでしかない様になります。

例えがすこしヘンテコだったかもしれませんが、目標だとか目的へ向かうそのプロセス自体を愛することができる、と言うのは大変素晴らしい能力だと思うし、「幸せ」というものを上手に感じることのできる人なのかもしれません。

それは、“生きる”ことが上手な人なのかもしれないな、とおもったんです。突然ね。“人生”だとか“生きる”だとかってものも、ある意味過程だとかプロセスだとかを楽しむことだったりしますものね。

8/25/2015

マクルード

昨日Twitter上で私の友人が「涼しい。なんだか切ない」と言うようなことをつぶやいていて、情緒があっていいなあ、と思いました。わたしもそう感じていたし、暑さへの名残惜しさみたいなものもあって、寂しいような切ないような気持ちになるんでしょう。暑いときは「暑くてやんなっちゃう」とか言っておいて身勝手ですがね。

言葉でも、そっけなくされたり軽くあしらわれたりすると、「あの人冷たいね」と言います。逆もしかり、優しくされたり丁寧な対応をされると「あの人暖かいね」と言ったりします。人は本当にその人の体温なのか発する温度なのかを感じ取っているのかもしれません。

寒さや冷たさは、きっと「死」を連想させるのだと思います。だから、悲しかったり切ない気持ちにさせられるのではないでしょうか。暖かさや熱は「生」を意識させるのでしょう。生きている人間は暖かいですからね。

もしかしたら“冷たい対応や態度をとる人の体温は、本当に冷たいかもしれません。暖かい対応や態度をとる人の体温は、本当に暖かいかもしれません。案外こういうことって、バカにできないんですよね。

これから少しずつ少しずつ外は冷えてきます。その分、人々は“暖かく”いたいものです。

8/24/2015

クルス

「忙しいのはありがたいことだ」なんて嘘だと思っています。少なくともわたしは忙しくはありたくないと思っています。やる気がないと言われれば、それでいいとも思っています。忙殺なんてもってのほか、絶対にこうはありたくありません。

「忙しい」は「りっしんべん(つまり心)」に「なくす」と書きます。心を亡くす、と言うことです。社長さんからすれば、心を亡くして言われたことをただひたすらやってくれる社員はありがたい存在かもしれません。

「忙しいのはありがたい」なんて、戦時中のプロパガンダ標語のようでもあります。心を亡くした人間に何ができるのでしょうか。忙しいなど人前で言う言葉ではありません。大変なときだって口先だけでは「暇で困っちゃうよ」なんていっていた方がいいです。

少し言い過ぎている部分はあれど、つまりはこういうことです。たかが言葉と侮ることなかれ。選ぶ言葉がその人の人となりを創っていきます。忙しい忙しいと言っていると、本当に忙しく(心が亡く)なってしまいますよ。

もちろん、飯食えないんじゃあ困るんだけれども、ね。

8/23/2015

バクラヴァ

食肉として育てられる牛がいます。バッグやソファの革として使われる牛もいます。乳牛もいますし、食べられる牛のなかでもとびきりランクの高い牛もいます。また、動物園で人間に見られる牛もいます。彼らはどこで別れたのでしょうか。

豚も同じように扱われます。おいしいハムなんかにもされます。鶏も一緒です。牛とか豚は神聖な肉だから食べない、と言う人たちもいます。様々です。選択権はみな、人間側にあるようです。食物連鎖の頂点にいますからね。自然なことかもしれません。

日本には昔から様々な土着の宗教があり、往々にしてそれらは多神教です。「八百万の神」と言ったりします。映画「千と千尋の神隠し」にもさまざまな神様が登場していましたね。“大根の神様”なんていう神様もいました。お米なんて一粒に7人の神様がいるだとか8人の神様がいるだとか言います。残すとバチが当たると、よく言ったものです。

頂点に君臨するものこそ、慈しみ深くまた、愛される存在でなければいけません。歯車をかけるも外すもわたしたち次第です。潤滑油も必要です。掃除をしてきれいに保つ努力をしなければいけません。それでも壊れる歯車もあるにはありますが。

即席の簡易的なものや、使い捨ての商品が増えることで、“手入れする”だとか“直して使う”だとかいうことがあまりにもないがしろにされてしまっているようです。「食」に関しても“命”が見えづらくなっています。

「いただきます」はわたしの好きな日本語の一つです。そのものに対する敬意を感じますし、日本人の素敵なところが出ている言葉だと思います。食の場面だけでなく「いただきます」がいたるところにあるといいです。

今日もこの「今日のおやつ」に訪ねてきてくださった方、ありがとうございます。どうぞ最後までたっぷり召し上がってくださいませ。お残しはいけませんよ、バチが当たります。

8/21/2015

なんじゃこら大福

久しぶりに会った友人などに「背伸びた?」と聞かれます。ひそかに続けているセルフO脚矯正の成果が出ているのでしょうか。うれしいものですね。きっと足が真っ直ぐになるだけで5センチは伸びます。

確かに以前に比べるとふくらはぎは細くなりました。歩き方を普段から意識して変えることで、足の外側の筋肉が痛くなることも減っています。

何より、立ちくらみが減りました。関係あるのかどうか怪しいところではありますが、ふくらはぎをマッサージしてできるだけ筋肉が硬くならない様に気をつけて歩いていたら、本当に減りましたし今ではほとんど起こりません。

人間の身体は不思議で、ちょっと手の使い方を変えるだけで足が強くなったり、足の使い方を変えるだけで腹が引き締まったりします。普段から意識的にそういった体の変化をとらえ感じてあげることが一番重要なのかもしれません。

もちろんセルフO脚矯正はまだまだ続きます。真っ直ぐになったら最高です。本来たぶんそれが人間の自然な姿ですからね。今はまだ不自然です。まだまだです。

8/20/2015

アイスカチャン

寄付という制度があります。お金が主ですが、ものを無償で分け与える行為です。見返りは求めません。それは心のやり取りでもあります。募金や献金もその類の行為です。自ら進んで、自分の財産を分け与えるわけです。

キリスト教の教会への寄付や、仏教の喜捨、イスラム教のザカートなど、各宗教に自分の財産を献上する行為が推薦されています。だからこれらの宗教の影響が色濃い国では盛んにこうした行為が行われています。

偽善だという人もいますが果たしてどうでしょう。たしかに自分の財力や影響力を誇示するためにこのこういうを行う人もいます。それは目的が違うから、すこしなんだか間違ってるようにも感じます。

偽善だったとしても、自分の財産が自分の心にある人々やものに使われればうれしいものです。それにこの寄付だとかの場合は寄付された側ももちろん喜んでいるはずです。2方向とも幸せです。これでは偽善なのでしょうか。

見えにくいものですが、3方向目まで想像してこういう行為ができるといいのかもしれませんね。

8/19/2015

いきなり団子

お察しの通り、今朝寝坊いたしました。家を出なければいけない時間に起床し、「今日のおやつ」書く暇なく出かけて行ったため、本日はこの時間に更新録ってしまいました。失敬失敬。少し涼しい風が吹くようになり、気が付けばぐっすり眠ってしまったようです。

嵐の気配とともに夏が終わろうとしています。「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますから、残暑は9月の大型連休まで続くでしょう。しかし眩しいほどの日差しはもうそれほど浴びることは無くなるでしょう。

人は、夏は暑いと言うし冬は寒いと言います。ちょうどいいから春と秋がいい、花粉症は辛いから秋がやっぱり一番かな、などと勝手にしゃべくるわけです。確かにそうなんだよなあ、とは思うものの、夏を「暑いね」だとか冬を「寒いね」だとか言って過ごせることは、これも一つうれしいことなのかもしれません。

この国には四季があります。折々の変化が鮮やかに起こり、人々もそれにつられるようにして多少なり心も身体も変化します。物も豊かにあり、冷たいものや暖かいものも使いきれないほどふんだんにあります。

「夏」と聞いて想像するものはなんでしょう。海、川、祭り、かき氷、スイカ、日差し、熱中症…いろいろあります。“暑い”ということは前提なのですが、その反作用として“冷たい”ものを想像します。冷たいものを楽しめる環境に私たちはあるのです。

「冬」も同じです。雪だとか、“寒い”ことは前提なのですが、やっぱり“暖かい”ものを想像しますよね。それももちろん、暖かいものを楽しめる環境にあるからなのです。

もう少しだけわたしは暑さに身をゆだねたいです。

いやしかし今日も暑かったね。

8/18/2015

チェンドル

一度誰かから「あなたは苦手」だとか「好きじゃない」と言われたとしましょう。それは本当に悲しいことだし傷つくかもしれません。この世の終わりのように感じることもないこともないです。しかし心配は無用。必ず他の誰かが「あなたといると落ち着く」「好きだ」と言ってくれる人がいます。

人間は、世の中は、驚くほどに嗜好の多様性にとんでいます。必ずどこかで求められ必要とされます。それが見つかっていない状態は辛く苦しいものです。友人さえいないという人だっています。でもそれは自分の場所を見つけられていないだけです。

確かに、ある意味ではこの世の中は自分の世界であるので、自分が好きなものはいいし嫌いなものは悪い、となります。間違ってはいません。しかし完全な善でも完全な悪でもないもの“ゼロ”の状態のものがこの世の中にはあふれていて、それを各々の感じ方で良しとしたり否としたりしているわけです。

今うまくいっていないからといって絶望することはありません。絶望しても場所は見つからないし、誰かも来ません。自分の足で歩いて様々なものを見て触れて感じて会って話して、見つかるものだと思います。

身体的な違いやそれに対する好き嫌いは、昔からの動物的な生き延びる知恵なのかもしれませんね。そう考えると、人間はけっこう優しくできているんですね。

8/17/2015

げたんは

どうやら人間は、随分と寂しがり屋な動物なようです。自分自身、最近ひしひしとそれを感じます。一人でいるときは特にそうですし、友人や家族と一緒にいる時でも寂しい気分になることとは多々あります。

そんな時、「寂しさ」を寂しさとしてきちんと正面から受け止めてあげることは、とても重要なことかもしれません。これは、「悲しさ」にも同様なことが言えますし「悔しさ」や「切なさ」にも言えることのように感じます。

「楽しさ」だとか「嬉しさ」というプラスの方向らしいことも、それはそれとして素直に受け止めてあげることは重要です。しかし、これらは受け止めやすいものですよね。人としてプラス方向らしい方が消化しやすいです。

これらとは反対のようなマイナス方向らしいものたちを受け止めて、消化することはなかなか難しいことなのかもしれません。形を変えようとしたり、何かで包んだり、なにかと一緒に無理やり飲み込んだりしてしまうことが起こりやすいんです。

寂しいときは思う存分寂しくていいんです。悲しいときは思う存分悲しくていいんです。それを素直にそれとしてきちんと認めてあげましょう。それをしていれば、後々必ず心の肥やしとなって豊かな土壌が出来上がるはずです。自分に素直でなければ、人に素直にはなれませんね。

8/16/2015

ロッドチョン

今就活生の姿を一年中見ているような気がするほど、リクルートスーツに身を包んだ学生をよく見かけます。みな同じような髪型で同じ服装で背筋を正して歩く姿を見るのは、少し異様な感じもします。その中には、もちろん女性の姿も多く見受けられます。

女性の社会進出が進み、昨今ではほとんどの女性が一度は就職して男性たちと同じように働いています。無論まだまだ閉鎖的で保守的な世界もありますが、確実に選択肢が増え女性の可能性も以前に比べれば格段に広がっていると言えます。

人間と言う動物は、往々にして選択肢を与えられすぎると選択自体をしなくなるんだと、テレビでもおなじみ心理学者の植木先生がおっしゃっておられました。なるほど、その通りで自分自身もそういった経験が数えきれないほどあります。

それは現代の女性に対しても当てはまることです(人間だから当然です。言うまでもなく男性もですが)。就職する、結婚して専業主婦になる、嫁いで女将となる、独身でいる、このほかにもいろいろな選択肢があると思います。しかしそこは人間、選択肢を多く与えられすぎると選択すらできなくなってしまいます。現に「みんな就職するから私も就職しておこう」という人が大多数を占めているのではないでしょうか。

「男性と同じように働く」という言い方をあえて上でしました。世の中でもそういう風に言われたりします。それは女性が勝ち取った権利です。この国でも女性は以前肩身の狭い思いをしていたと思います。でもね、そもそも男性と女性は違うんです。女性が男性のように働こうと思ったらできないことはないですが、それは本当は必要ないことです。男性がやればいいのですから。

女性には女性らしく生きる道がもっと与えられてしかるべきだと思っています。社会として「わたしは女性なんだ」と意識して生きられる環境がもっとあっていいのではないでしょうか。特に出産は女性にしかできません。その女性ですら出産できる身体のリミットもあります。女性にとって20代というのはとてもとても大切な時期です。その出産に最も適している時期と言えるからです。大学に進学する生徒が増える今、つまりその時期に就職はぶつかります。

出産に対するバックアップはもっとあっていいのです。子どもを産みたい女性が産んでから社会に出られるような環境が必要です。難しいことは百も承知、だからこそ目指すべきだと思います。女性の幸せは男性の幸せでもあるのですから。

8/15/2015

さつまどりサブレ

難しいところなのですが、自分を煽ることはしていかなければいけないと思うのですが、焦ってはいけないようにも思います。焦ると判断力が鈍るし、それほどいいことがありません。でも失ってから気が付くのが人間です。今のうちにやっておきたいことがあります。

例えばわたしなんかはそういうタイプなのかもしれませんが、今のところどうも仕事と遊びの境があいまいです。仕事も面白がってやろうとします。もちろんそこにはお客さんがいるし、その人のお金が絡みますから責任があります。自分自身の責任でできるのが遊びなのかもしれません。そして遊びもわたしはすごく真剣にやります。

むしろ仕事より真剣です。面白いを全身で感じながらやるし、とにかく真正面からぶつかっていって体力使います。遊びだから適当でいいやとはどうもならないんです。遊びだからこそ真剣に行こうよ、って感じです。

好きだし面白いからやるっていうのが自然だと私は信じています。だから真剣にやる。そうするとうまくいかないこともあるからすごく悔しい。それでもやりたいからやるわけです。ある意味わたしは趣味だらけの人間です。大体何でも面白いと感じます。「これは自分にはわからないから面白い」っていうのもあっていいと思いますしね。

とにかく、真剣に行きましょう。仕事も遊びも、なんかじゃなく、遊びだからこそ真剣にやりましょう。とことんやりましょうよ。

8/13/2015

チェー

周りの雰囲気や空気、レベルや意識を変革したいと思ったら、まず何をするべきなのでしょうか。自分が率先して行動し、見本となることは必須条件のように思います。それに賛同してくれる人を徐々に徐々に増やしていくことも大切だと思います。しかし、思い描く姿から何もかもがほど遠く到底変革しようがないような状態の場合はどうすればいいのでしょう。

「時を待つ」という言葉があります。時勢をよんで、ここぞというときに躍り出て新たなものを作り出す。しかし、その前にその状況を壊して乱世に持ち込む人がいます。既存のものを壊して壊して秩序のない状態を作り出す。そこから徐々に人々の意識が変わってきて、新たな時代が見えてくる。

日本人の間には「事なかれ主義」が蔓延しているように思います。今ある程度楽しめているんだからいいじゃないか。自分じゃなくても誰かほかの人がやってくれるだろう。そんな風です。周りを見すぎて何もしない。外れてしまうことを極端に恐れる。

そもそもいったい何人の人がこのままでは世界と戦えない、変わらなければいけない、と感じているか。プレーしている本人たちが一番感じなければいけないが、それが見えない。見ている方の人たちもあまりにレベルが低い。拍手一つとってもいらない時にし、褒めるべき時にできない。本当に落胆の色を隠せなかった。

スタート地点がこれというのはあまりにも苦しいが、ある意味ではやりがいある。
昨日Jリーグを観に行って感じたことでした。みなさん、本物をきちっと観ましょうね。

8/12/2015

ちんすこう

今日からお盆休みをいただいています。お盆はゆっくりとしているつもりです。プレミアリーグが開幕し、すでに寝不足ですからね。夜の若者はハロウィーンの時はあれほど大騒ぎするくせに、ジャパニーズハロウィーンのお盆では盆踊りすらまともに踊らないようですね。おかしなものです。もちろん冗談です。

最近続々と友人の転勤が決まっていて、すこしずつ巣立ちだとか自立の時期に入ってきている気がしています。結婚をする友人も増えてきています。それと同時に死んでいく人も増えていきます。葬式も結婚式もこうやって増えていくんだなあ、と実感する時期のようです。

何度かここでも書いているかもしれませんが、人は死にます。これは絶対的なことで、人生の中で唯一の決定事項です。今もなお、生きている人たちは死に向かって生きているわけです。でもね、“死”というのは2人称でしかありえないんです。

養老孟司先生が自身の著書『死の壁』の中でおっしゃっている事なのですが、まず1人称の“死”はあり得ない。自分の死体は見ることができませんからね。2人称の“死”こそ死なのです。親や兄弟、親戚、友人がそれです。3人称の“死”は確かに死ですが、死体が見えないし関心がいかない。言ってしまえば3人称の死で自分の毎日が変化することはほぼないんです。だからこれも存在しない(と言っていい)。

死について考えるということは、ひるがえって生について考えることです。お盆は一年に一度、死について考えるいい機会かもしれません。怖いもの、けがれたもの、などという見方はよして真摯に“死”について考えておくと、2人称の死も以前より受け入れやすくなるはずです。

8/11/2015

ハロハロ

信頼あってこそ成り立つんだ。人間と人間である以上、信頼がなければいけないと思うしそうでないと生きてさえいけない。これは初対面の人でも例外なく、信頼が必要になる。誰かの友達を紹介されたのであれば、その誰かへの信頼が重要になってくるし、全く偶然に出会った人でも自分の中で信頼を形作らなければ、話しすらしないのではないか。

仕事というのは信頼でできている。物を売ったり買ったり、そこには信頼がないといけない。売買に使うお金そのものが信頼によって成り立っているものなのだから。そこで自分の利益のことだけを考えて、信頼をないがしろにするのは間違っている。これについてははっきりと間違っていると言える。

お互い信頼を頼りにするのだし、それがあるからうまく回っているんだ。そこにかこつけてきちんと説明してくれるだろう、自分の利益だけでなくこっちの利益も考えてくれているだろう、という信頼をあだで返すのはどうなのだろう。「それは調べなかったあなたが悪いのでしょう」と言う人もいるだろうが、本当にそうだろうか。

信頼を自ら壊しにいくっていうのは、自分たちを安売りしているってことなんだ。それをわからないとその会社は衰退するし、その業界は衰退する。信頼とはそれほど大切なもので、すべてと言ってもいい。それを壊すようなやり方は、きっと長続きしないよ。

人として誠実であることと、仕事を誠実にすることは一緒じゃないといけないんだ。その仕事はもともと、人の役に立つために生まれたものでしょ?そして、役に立ったから信頼があるんだよ。

8/10/2015

紅いもタルト

昨日は日光浴の日でした。本を読んだりキャッチボールをしたりしながら、太陽光を浴びていました。でもなぜこれほど身体を焼きたいのか、考えてみると自分でもわかりません。単純に太陽光が好きだということは多分にありますがねえ。

夏は黒く焼けている方が男らしいということでしょうか。それはあります。肌が白いより黒い方が引き締まって見えます。昔から海外のスポーツや映画を見てきたわたしには、黒人へのあこがれがあるのでしょうか。それもあります。しなやかな筋肉をしているし、まず身体能力のずば抜けた人ばかりです(テレビに出るような人たちですから当たり前ですが)。

こんなところでしょうか。こんなに薄い理由でも、わざわざ時間を割いて日焼けのしやすい人の少ないところに車で行くわけです。熱中症にならない様に、食べ物だとか飲み物だとかを用意してね。寝転がるためのビニールシートとバスタオルも用意しちゃったりなんかして、見た目は2泊3日の旅行に行くような荷物の量です。

自分が好きな読書やキャッチボールをこれまた自分が好きな日光浴をしながらできるというお得感もいいのかもしれません。それも間違いなくありますね。汗をかきながらする読書も意外にいいものです。本が濡れるほどの多汗症では困ってしまいますが、幸いわたしはいい汗をかく人間です。本は濡れません。

くだらない、日曜日の追憶でした。

8/09/2015

トルティーヤチップス

例えば、歴史上の人物でお気に入りの偉人がいたとします。その人のキャラクターや歴史書なんかの記述にある思想が好きだとします。そうすると、「今の時代、この人が生きていたらどう思うのだろうか」と考えたりすることがあります。でもそれは意味をなさないことかもしれません。

意味をなさないことはないかもしれないけれど、その人はきっとその時代に合致した人物だったのです。だから歴史に名を残すようなことを成せたんじゃないかしらん。だから、その人が現代に来てみても割と何もことを成さずに死んでいくんじゃないかと思ったりもします。そもそもことを成すとはどういうことでしょうか。

わたしの好きな偉人に吉田松陰がいます。彼は「志を遂げる」ことだと言っています。そうであれば、まず志を持たなければはじまりませんね。ほかに好きな偉人としてチェ・ゲバラがいます。今現在生きている人では、矢沢栄吉が好きです。

わたしは彼らの思想だとかはあまり参考にしたりはしません。彼らの“本気”が好きなのです。ものすごいエネルギーを感じます。“本気”なんです。映画テレビ本音楽…彼らに触れるときビシビシ身に刺さってきます。

ことを成すだとか成さないだとか、そういうことはもはや後付けかもしれません。本当の本気で生きていると、そういうものが後からついてくるのかもしれません。

8/08/2015

サーターアンダギー

形から入るというのはあんまりかっこよくない風に語られがちだけれど、いいじゃない、それでそのものに近づいたり気持ちが高ぶって幸せな気分になれたりすれば、それでいいしその方がいいと思います。間違いなくわたしは形から入るタイプですしね。

フットボールやNFLも応援するチームのユニフォームやグッズを身に着けて、自分自身の気持ちを高めるところから入ります。ユニフォームやグッズを身に着けているだけで愛着もわきますし、自分自身も少なからずそのチームの一員になれたような気がしたりもするのです。

例えば、“紳士”“淑女”という人たちもそうです。身なりから入るというのはすごく重要だと感じます。きちっとした洋服を着ていれば気持ちが引きしまて、自然きちっとした人間になるものです。一張羅を着込んで街を歩くだけでも気持ちがピシッとするものです。

洋服なんかには不思議な力があって、着ただけで元気になったり厳かな気持ちになったり楽しい気持ちになったり熱い気持ちになったりします。人間を持ち上げてくれる一つのツールです。だから、洋服に引っ張ってもらって理想の自分に近づくというのはありですし、歓迎されるべきことです。

普段から着る洋服を意識してみてください。気持ちも、身体さえも変わってきますよ。

8/07/2015

ソルベ

自分の心が成長するためには、少し「責任」みたいなものを背負った方がいい気がしています。あまりにノンストレスで(生きていればストレスはかかるものですが)、比較的簡単なことばかりやっていると、人間がダメになるような気がしています。

その訓練として会社に所属するというのはいいと思うし、一人暮らしとか転勤とかっていうのもいいかもしれません。責任ある立場とか責任ある仕事っていうのはそれなりに大変だし難しいものかもしれませんが、その分面白くもあると思います。ストレスがかかることは、面白くもあるとわたしは思っています。

自分の人生ですから、自分で責任をとるしかありません。海外に一人で行って病気にかかれば自分でどうにかするしかありません。自分の身は自分で守る、というのも責任です。結婚をすれば自分だけではなくなります。守るものが増えます。それは身が重くなることじゃなくて、幸せなことだと思います。自分とともに生きる人がそばにいるということは幸せです。子どもが生まれればなおさらです。

責任と幸せは比例するかもしれませんね。小さな責任であれば小さな幸せだし、大きな責任であれば大きな幸せが感じられるのではないでしょうか。そんな気がします。

でもね、これを言ってしまうともともこもないのですが、幸せや責任に大きいも小さいも存在しないんです。そもそもね。人間が、自分が勝手に「これは責任重大だぞ」だとか「これは責任追わなくて済むからかんたんだな」だとか決めているだけのことなんです。その人の見かた、感じ方次第なんですよね。

だからこれからしばらくは、少しだけ心にテンションをかけて「若いときの行動は自分次第。責任重大だぞ。」と言うふうに自分をあおっていこうと思います。

8/06/2015

くずざくら

自己中心的でないことなどあり得るか、どうなのでしょうか。生まれてこの方、みな生まれたときの身体(正確に言えば一日一日身体は変化しているから違うものになっているけれど)しか持ったことがないし生まれたときの脳みそしか持ったことがない。

つまり“自分”がいない世界は“自分”にはあり得ないんです。今見ている世界は自分を通して見ているものだし、ある意味では自分が作り出した世界でもあると思うのです。そして、その自己から逃れることはどうしたってできない。自分の頭で考えている以上、主観になってしまうんじゃないかと思うのです。客観で考えるということは本当に可能なことなのでしょうか。

しかし、ここが悩ましいところで人間は他人の評価によって生きる動物です。“他人”がいます。そして他人にいかされています。絶対評価をできるのならばいいのですが、人間は必ず相対評価をします。他と比べるし比べられるのです。否が応でもそうやって各々が評価し評価されています。言い換えれば、生かし生かされています。

難しいのが、生まれてこの方“自分”を通してしか物を見たことがないのに、“他人”に評価されなければいけない、と言うところです。自分で自分のことを評価できればいいのですが、いくら自分で自分のことを評価したって他人に評価されなければ生きてゆけません。それじゃあ“他人”に評価されるように“他人”の気持ちになって考えてみよう、とやってみても本当に“他人”の気持ちになることはできません。考えているのが“他人”の頭ではなく“自分”の頭ですから。せいぜい想像し寄り添う、くらいまでじゃないでしょうか。

だから、他人のことを考えているといっても考えているのは“自分”ですから自己中心的になるし、世界のことを考えているといっても自己中心的にどうしたってなると思います。自分がいない世界など自分にはあり得ないんですから。“自分”と“他人”の間で苦労しながら、それを理解したうえで、寄り添ったり、理解しようとしたり、そういう姿勢を持っておきたいです。

釈迦という人が開いた「悟り」ってやつは、この“自分”と“他人”の垣根を超えちゃったってことだったのかな。

8/05/2015

レモンシャーベット

もう何週間分ものテレビドラマを録りためてあります。観ようかと思っても、ほかのやりたいことに押し出されていつも後回しにされてしまいます。でも、録っておきたいんですよね。優先順位こそ低いものの見ようと思った時に見られるようにしておきたいんです。

しかし、何週間も録りためてしまっているくらいだから、無くてもいいのかもしれません。実際に見ていないのですもの。こういうものを少しずつそぎ落としていってシンプルにあるべきなのかもしれません。やることが多すぎるのもよくありませんからね。

録ってあると、「あゝ、あれも見なきゃ」になります。不思議なんですがね。そう思っていなかったとしても、口から出てくるのは「見なきゃ」という言い方です。見なくてもいいのですが、なにかもう義務のようなものいいに自然となっています。

きっと何かタイミングもあるのでしょう。もう少しずれていれば優先順位の上の方に来ていたかもしれません。今はそうでないようです。それはそれでいいのです。時間は限られているし、“人”だけでなくテレビ番組だって、本だって、音楽だって、“出会い”ですからね。

さて、今日も録りためたドラマは見ずじまいで床につくでしょうが、わたしは元気です。

8/04/2015

田舎まんじゅう

わたしは常々、「学び」というものは道端に生える雑草からでも学べるものだ、と言う風に考えています。そう自分に言い聞かせています。つまり姿勢の問題なのです。どこからでも知識を吸収してやろう、自分の身になることを見つけよう、と日々考えて行動していれば道端に生える雑草からでも「学び」は得られるのです。

昔、師匠と弟子という関係は何かを学んだり習得するうえで当たり前のように結ばれた関係でした。これが最良だとされていました。師匠は弟子に教えません。自分が“それ”をやっている姿を見せるだけです。見せすらしない場合もあったかもしれません。掃除や洗濯など雑用ばかりやらされるわけです。

そこで弟子は考えるわけです。「もしかしたら師匠は今、“それ”をするにあたって大切な何かをわたしにお教えくださっているのかもしれない。」こんな具合にです。そうするとひとりでに弟子は自ら考えて“それ”と今現在自分がやっていることとの関連性なんかを探っていくわけです。そうやって自分自身を高めていくやり方でした。

この場合、弟子が優れていれば師匠はそれほどでなくてもいい、と言うようなこともあります。何が重要かと言えば、自分から学ぼうとして知識を得ることが重要で、さらに言えば自ら行動して知識を得ようとすることが重要である、と言うことです。

自分自身で何もかもが変化してきます。世界にあるものは、もともとフラットですから。

8/03/2015

チュッパチャップス

『村上海賊の娘』を読んでいます。歴史を知るというのは改めて面白いと思いながら読んでいます。彼らのすごいところは、ふつう行きたがらない難所を自分たちの拠点にし、そこで違いを作り出しているというところです。みなが選択肢として持たないようなところにこそチャンスがあるという好例かもしれません。

彼らのホームである瀬戸内海は潮の流れが激しく、渡航するのが困難です。小さな島がいくつも点在し、どこが水路でどこが入り江になっているのかわからないそうです。そんなところで海賊をするわけですから、通る人たちにとっては恐ろしいのなんの。関所を通過するときには「帆別銭」を収めなければならず、かれらはそれで戦力を維持していたそうです。

「だれも行きたがらないところ」「難しくて手を出したがらないところ」にこそおおきなチャンスがあります。そこを手にできれば独占できます。競争相手がいないということは商売をするにあたって、そして生きていくにあたって大事なことです。より大きな成功をおさめやすくなるし、より生き残りやすくなります。

『ZERO to ONE』のなかでピータ・ティールも競争ではなく独占を目指すべきである、と言うような趣旨のことを言っていましたが、村上海賊はまさに独占でした。生き延びる知恵が、そこにはあります。

8/02/2015

ずんだもち

昨日の夜、今月からシーズンがスタートするご贔屓にしているチームの日程をせっせと手帳に書き込み、どのような調子で観ていこうかコーディネーションを考えていました。それだけでもうワクワクするし、寝不足が想像できます。

基本的にライブタイムで視聴するのが好きなわたしは、贔屓のチームはことさら何があってもライブで観ようとします。スペインと日本の時差は8時間(現在はサマータイム期間中のため7時間)ですからほとんど半日ちがいます。12時間くらいの違いであれば苦になることは少ないのですが、半日ですからまるっきり日本の夜中になってしまうのです。

それでもって、イタリアのクラブ、今シーズンはポルトガルリーグのクラブも観ようと思っています。プラスでNFL。週末は寝る時間がありません。いくつかの試合がバッティングした場合、大いにあり得ることですが、優先順位をつけて観なければいけません。これを今から考えているわけです。

これは本当に現地に移住するべきですね。ええ、まじめに考えます。2つのフットボールが始まれば、それを中心に生活を回したいし、そうする人間ですからあまり日本にいる理由もありません。いわずもがな、簡単に移住できればもうすでにしているわけですが、そうはいかないんですよねぇ。

いよいよ気持ちが遠くに飛んで行ってしまう、やかましいほど蝉の声が響く夏の日です。

8/01/2015

ミックスナッツ

いつでもユーモラスでありたい。ユーモアを持っていたい。苦しいときこそユーモアで切り抜けたい。そうありたいものです。自分の主張や、メッセージもユーモアに乗っけて送り出したい。きっと見た目の軽いユーモアに乗せた方が遠くまで届くし、誰でも扱いやすくなると思うんです。そして単純に、ユーモアをさらっと言える大人はかっこいいよなあ。

人を明るくさせながら、切り抜けていく力がユーモアにはありますし、ユーモラスな人にはあります。これは他人への気遣いであり自分への気遣いでもあると思います。直接的な言葉というのは往々にして攻撃的になりやすいし、言う方の自分もしんどいものです。そこを柔らかく軽く、ユーモアでもって見せるんです。

ジョークとは少し違います。ジョークというのは直接的な攻撃性もある場合があるし、単なる悪ふざけや単なる下ネタということが多いです。ユーモアというものはそうではなくて、より人と人との間で交わされる熱感のある言葉です。

言うまでもなく、ブラックユーモアと呼ばれるものやウィットにとんだものもあります。そちらの方が今は真のユーモアとみられます。それはそれでいいとです。私自身ブラックユーモアは好きだし、それができるのはかっこいいとも思います。笑いを含めようという気概が好きです。

〆の言葉にユーモラスなものを持ってこられれば、こういう場合いいのですが、悲しいかなわたしにはこれっぽっちのユーモアもないようで思いつきません。ユーモアについてつらつらと書き連ねた人間がユーモアを持ち合わせていないのですから、しょうがありませんね。どうもすみません。