4/22/2016

妖精の森

人の考え方の根っこには、大きく分けて二種類あると思います。

「自分には能力がある」というのと「自分はバカだ」というのと。

僕は半ばむりやり前者側に身をおいていたのですが、最近は後者のほうが面白そうだということに気がついてきました。

一口に「考え方」と言っても、物事全般に対応するものではなくて、この場合なにか目標みたいなものに対する考え方のことを言っています。

金を貯めたい。時間が欲しい。出世したい。モテたい。とかね。

どうして「自分はバカだ」と考えることからスタートしたほうが面白そうなのかというと、そのほうが頑張るからです。至極簡単。ダメな分一生懸命考えたり体動かしたりする。だから面白そうな方向に行きやすい。

人間は自分のことならそう簡単には絶望したりしませんよ。「自分なんて取るに足らない存在だ」とか言って死んだりはしない。最初から死ぬことが分かっているのにそれについて絶望したりしないでしょう。

「バカだ」は言い過ぎかもしれないから「能力がない」としてもいい。

「バカだ自慢」とは違いますけどね。

資本主義社会に生きるなら「行動的禁欲」が大事みたい。

4/17/2016

バタフライケーキ

「取捨選択」という言葉がありますよね。何を取って何を捨てるか、ってだけのことを表した言葉です。意識、無意識にかかわらず生まれてこのかた常日頃から「取捨選択」して生きているわけです。

これは大事な選択だ、と思うことが今まで生きてきて何回かあったかもしれません。その時の「取選択」が自分を形作っています。それと同じに「捨選択」も自分を形作っていることに気がついているか。

いわゆる仕事のできる人とかリーダーシップをとれる人とかというのは、「捨選択」がとっても上手なように見えます。

「何をやらない」「何が必要ない」かを、果実を間引くみたいにして判断できる。それができると自身もそうだけれど、周りのみんなが動きやすい。

「優柔不断」は人生最大の敵です。時間ばっかり過ぎていく。考える時間は絶対に必要だけど、それよりも行動する時間の方がたくさん必要です。

すぐに行動するのは意外と訓練が必要だったりしますから、まずは「やりたくないこと」をを捨てましょう。「やりたいこと」が分からなくなっても、「やりたくないこと」は分かるのが人間みたいです。

思いっきり主観に偏って選択しないと、そのうち本当に自分が誰だかわかんなくなっちゃうみたいですよ。本当に。

間違えちゃいけないのは、自分のことを考えるとき「するべきこと」は「捨選択」の方です。

4/15/2016

北海道開拓おかき

こないだ、テレビをつけたらたまたま国会中継がやっていて、しばらく見ていた。

そうしたら、どうにも見てられなくなっちゃってチャンネルを回したのでした。

そのあと贔屓にしているワイドショーを見ながら、どうして国会中継を見ていられなくなったのか、不思議に思ったんです。そして、それはきっと「割り込み」の連続を見ていたからだと気がつきました。

人間は「嫌だなあ」と思う瞬間があります。嫌悪感と言うのか、そういうものには敏感です。

その中で「割り込み」というのは万人が感じる、それも「嫌だなあ」率の高い曲者かもしれません。

身体的な「割り込み」はもちろん嫌です。ズルするな、って話になる。でも国会中継の「割り込み」は身体的な方じゃなくて、精神的な「割り込み」です。

人が話している最中に他方から話し始める。これは、割り込まれた本人も嫌ですけど、第三者として見ている人も「嫌だなあ」ですよ。ポン酢でしゃぶしゃぶを楽しんでいたのに、「こっちで食べなさい」なんてゴマダレをつけて食べさせられてもねぇ。そっちもちゃんとあとからやりますよ、です。

どうして「割り込み」は嫌だと思うのかを考える必要はあるけれど、こうしてみると人に好かれるのが大体聞き上手である、というのは道理だなあ。

4/12/2016

ショートブレッド

少し前に生存率0%…といったようなドラマを放送していました。僕は観ていないからそのドラマの内容は知らないし、後日の評判だとかも全然耳に入ってきていないです。だから、そのドラマとはほとんどまったく関係ない話しをこれからしようとしているとも言えます。

ただこのドラマの宣伝を見た時に、「生存率0%」というワードが頭の中にしばらく漂っていたんです。

人類が誕生してこのかた、死ななかった人間はいません。ほぼ100%そう言っていいはずです。要するに、人類(人類に限らず)は寿命という「生存率0%」の病にかかっている、という見方もできます。癌とか、脳梗塞とかなんかより致死率が圧倒的に高い。

人間は「どうやって死ぬか」を気にして生きているのかもしれません。寿命で死ねれば一番いい。癌で死ぬのは死に方として嫌だよ。っていうことで、嫌われている側面もあるんじゃないかしらん。

僕は今癌で死ぬのはいやですから。と言うより、まだ死にたくないって思ってます。つまり「死」をまだ受け入れられていないんだと思います。

折り合いをつけようがつけまいが、「死」は必ずやってきます。怖いっていうのもある。でも、「どう生きたいか」を考えると、必ず「死」が前提としてないといやんなっちゃう、みたいなところはあるよね。

そうは言うものの、自分よりも先に旅立った人のことを、未だに消化できていないのが、本当。

4/11/2016

シレトコドーナツ

一度「毎日書け」と言われたにもかかわらず、大体一ヶ月ほど更新をしなかったのは、まあ言い訳なのですがとっても時間がかかって僕にとっては大変なことをやり始めてしまったからなわけであります。ほんとうにこちらの都合ですが。
それに、一応書くからには何か一つくらいは読む人の発見になるようなこと書こうと決めているので、これを書くにもある程度時間もかかるのです。

そんなところでどうぞご容赦ください。そして「今日から毎日書きます」なんて守れそうにない約束はしませんので、それもご理解のほどを。

さてその今手いっぱいになっているものですが、それは「調べて書く」という作業です。別のページで「UEFA EUROから世界史を見る」というようなことをやっているのですが、これが想像以上に大変なのです。
面白そうなことを思いついたと思ったので実際にやりはじめみると無学がたたり、いっこうに筆が進まない。そもそも知識がないのですから書きようがない。

世界史の教科書を開いてわからないことはインターネットと本でちくいち調べる。
それはそれは地道な作業です。そして、関係性を見つけてそこから教訓となることを導き出す。もう勝手に苦しんでいます。

でも大変な作業だからつまらないかということでなく、楽しいんです。歴史を紐解いているわけですから、見ていくうちに時代と時代、事件と事件が結びついていく。現在でも同じようなことが起きていることも分かってくる。なるほど歴史が学問の基礎なわけです。

そして我ながらこれはいい試みだと感じているのですが、その理由はいろいろな立場から歴史を見ることができるということ。言い方を変えると、ひとつの事象をいろいろな「解釈」のしかたができる。歴史は一つではない、ということが見えてきます。これはグローバル化した現代にこそ持っておきたい能力のように思えます。いろんな背景を持った人の感じ方を想像する。なんだか精神論のようですが、しかし確かに必要なことです。

そんなわけで(どんなわけで?)、作業に戻りますゆえこれにてご免。
「人の気持ちを考えましょう。」はバカにできませんね。