5/31/2015

今川焼

「やります!」という瞬発力が大切なんだと思います。俗に言うチャンスというものはそこらじゅうに転がっていて、でも、何もしない人には見えないんです。

「やります!」ができる人には、それ自体がチャンスになるかもしれないし、それを続けていくことで「なんとなくいい流れになってきたな」の状態になるのかもしれない。とにかくチャンスというやつは、思いもよらないかたちやタイミングで、「あ、どうも」って顔をひょっこりのぞかせます。

ヨーロッパでよく言われるのが、チャンスの女神は前髪しかない、現れたらすぐにつかまないと逃げられてもうつかめなくなってしまう。という表現です。これは「やります!」の瞬発力ってことです。それと、チャンスの女神をじっと待っていてはダメなんです。行動して初めて顔をのぞかせるんです。

「果報は寝て待て」も本来は「果報は練って待て」なんですよね。ああでもないこうでもないをくりかえして、行動して行動して行動して、もうこれ以上ない、やることはすべてやった、あとはもう待つことぐらいしかない。ということなんですね。

「やります!」の瞬発力が道を創るんです。

5/30/2015

プリン

とにかく意地っ張りで、気が短くって、やせ我慢ばっかりする。「五月の鯉の吹き流し」とか言われたり、「宵越しの金はもたねえ」ってのが美徳だったりする。それだから、昼ごろになると店を閉めちゃう。いつまでも店を開けていると、「なんだ、あいつは今日食う分の金も稼げねえのか。だらしねえ野郎だな。」なんて言われちゃう。それはくやしいから昼になると閉めちゃう。

吉原にだって行く。何人か連れだって行く。でも上がりはしない。冷やかしに行くんだ。散々冷やかして帰っちゃって、また次の日も冷やかしに行ったりする。
「ひ」が「し」になっちゃう。「ひ」って言えないんだ。「しが暮れる」だし「しやかし」なんだ。

「いき」っていうのはこの人たちが生んで育てた“美”なんだよ。いきじゃない、野暮なしみったれは馬鹿にされる。下駄を履くときにかかと少し出した状態がちょうどいいっていうのも、この人たちがそうしてきたから。やせ我慢の一種で、これが「いき」だったんだって。

「なにいってやんでぃ、こんちくしょう」「しょうがねえな、まったく」こんなことをいいながら、ほんとうはおっかなびっくりだけれど、見た目は潔く生きている。人間臭くって素敵だ。

もちろんそう、江戸っ子の話しをしたのでした。

わらび餅

優しい言葉で話すというのは、実は難しいことなんですね。複雑なことを伝えなきゃいけなかったり、難しいことをかみ砕いてより分かりやすくするのも、実はそう簡単な作業じゃないんです。

どこの言語もそうだけれど、いろんな単語や言い回しがある。日常生活でよく使うものから、専門的な場でもめったに使われることのない言葉まで、様々です。それで、所謂簡単と言われるものは前者でして、難しいといわれるものが後者です。言ってしまえばこれだけのことで、難しいといわれる言葉や言い回しでも、日常生活でみんながたくさん使うようになれば、それは簡単の方に変化するんです。

でもね、この難しいといわれているものは、使う場面が極端に少ないから難しいと思われているわけで、意味はとても限定的なんです。いわば表現できる範囲が少ない、ということです。つまり、知ってしまえば簡単なんですよね。

一方の簡単といわれているものは、シンプルで表現できる範囲が広い。日常生活、みんなの暮らしの中で年中使われているから、いろんな意味合いが含まれてくる。表現する人や場所、時間帯によって変わってきたりする。複雑に変化していて、いよいよ簡単ではなくなっているんです。

優しい言葉っていうのは、これを全部わかっていなきゃ使えません。言ってみれば、言葉の達人しか操れないものなんです。その人が話せば、難しいことがどうしてどうして腑に落ちるし、簡単なことも味わい深いコクが出るものです。

これができるようになるには、これはもう日々の積み重ねなんです。生まれ持った言語的センスもあるしね。それと、素敵な文章や表現を見て感じないといけません。それともう一つ、自分の脚で歩き、自分の手でつかむってことも言葉にとって大切だったりするんだよなあ。

5/28/2015

チュロス

自動車運転免許の更新に行ってきました。私は無事故無違反の優良ドライバーですから、もちろんゴールド免許をいただきました。短い講習を受けるために講習室に入ると、壁に貼り付けてあるホワイトボードには、「本日の死亡事故1件 今月12件」などと書かれていました。これはもう全国で当たり前の表示なんですけれど、私には非常に冷たい景色に映りました。
 
この数字は、確かにただの数字です。しかし、“ただの数字”ではないんです。
「今日、どこそこで〇〇☐☐さんが車にはねられ死亡しました。」ということです。人の命が一つ無くなってしまっているのです。その人は、周りの人たちとなんら変わりなく移りゆく季節を過ごし、泣いたり笑ったり怒ったりしていた人です。その人にはもちろん親がいます。兄弟がいたかもしれないし、家庭を持ち、子供もいたかもしれません。仲の良い友人もいたことでしょう。その人は様々な影響を周りの人たちに及ぼしていました。その人が死んだのです。命が一つ潰えたのです。
 
ニュース番組では、毎日気の遠くなるような“ただの数字”が並べられます。でも、その向こうでは人が死んでいるんだ、本当に命が無くなっているんだ、ということが、講習室のホワイトボードを見たときに、私の心には痛烈に突き刺さりました。
 
“ただの数字”を見たときに、数字の向こう側が見られる人間でいたい。命というのは、代えの利かないものなんです。

5/27/2015

みそ田楽

村社会という言葉がある。昔は近所中みんな顔見知りで子供の世話をしてあげたり、煮物を多く作ってお隣さんにあげたり、とにかくみんなで助け合って生きていました。最近はすたれてきているけれど、田舎なんかに行くとまだまだ村社会が息づいています。

もちろん村社会にも悪い面があって、まあむしろ「村社会」と言って語られるときはこのことを言っている場合が大多数を占めているわけですけれども、なにせみんな顔見知りなわけだから、少しでも付き合いが悪かったり、所謂村の長のような人の機嫌を損ねたり、暗黙のルールを破ったりすると、“村八分”にされてしまいます。もうそこにいられなくなっちゃうんです。

今現在SNSが発達したことで、「村社会化」みたいなことが起きています。例えば、LINEで“既読無視”をした、だとか、Twitterで全然反応がない、だとか。顔が見えないから割と心を痛めずに悪口が言えてしまうし、自分の鬱憤を晴らす場にしてしまう。陰口も、陰口でなくなってしまいました。陰口はもちろんよくないことだけれど、面と向かっては心が痛んで言えないようなことが、形としては言えるようになってしまっています。

人はみんな、闇というとちょっと過ぎるかもしれないけれど、暗い部分を持っているものです。人のことを憎んだり、羨んだり、嫌ったりするものです。それは表に出来るだけ出さずにしまっておくべきものだ、という前提と良心があるから人間臭くって地肌の生温かさがするからいいんです。顔と顔、生身と生身だから面倒臭くて素敵なんです。

5/26/2015

クリームブリュレ

食べることが大好きなわたしですが、最近は満腹にならない程度に食べています。腹八分目です。満腹になると、なんだか人間がダメになるような気がしてね。

昔から、なんでも腹八分目がいいといわれてきました。満腹にするのは身体にそんなによくはないし、食べないのももちろんダメ。ちょうどいいのが腹八分目なんだと。最近それを実践してみてやっと真意がわかってきました。うんうん確かにいい感じ、なんです。

そもそも、お腹がすいてないのにものを食べるってなんだかおかしい。もちろん食べることが大好きな私ですから、その気持ちはよくわかる。でも、習慣と言いましょうか、癖と言いましょうか、でなんとなく食べている場合が多いんですよね。東京なんかは周りを見渡せば、食べ物がない空間の方が少ないくらいです。ちょっと小腹がすいている気がするから食べちゃおうかな、なんてことだらけです。

大体の場合、ほかの動物たちは生きるために食べているわけです。お腹がすくから狩りをしたり、草や果物のある所に行くわけです。要するに、空腹はエネルギーなんです。
日本ではこれが逆転している気がします。「お勉強するときに力が出るように、朝ご飯はしっかり食べましょう。」「一日元気に働くために、3食きちんと食べましょう。」
自然界では、食べるために動くんだけれど、人間界では、動くために食べるになっているみたいです。

江戸の人々は一日2食だったそうです。贅沢できなかったということもあるんでしょうが、身体を動かすにはその方がよかったんでしょう。
わたしは、満腹の時は動きたくなくなるし、空腹のときは頭が冴えるようなところがあります。
それに、本当に空腹のときに食べるご飯が、一番おいしいんですよね。

ういろう

今私は眠い。眠いときに寝ることは、お腹すいた時にご飯を食べるくらい好きなことです。本当に眠いときに布団でぐっすり眠るのは気持ちがいいです。

寝ることは、動物が生み出したものすごい能力だと私は思います。もっと評価されていい。眠ることで、病気がよくなったり、体の調子がよくなったりする。いわば、自分自身でメンテナンスしてしまうわけですから。

眠っているときに、内臓は休むし、脳みそは休みつつ記憶を定着させる。眠る時間がもったいないという人がたまにいるけれど、逆です。眠らないと時間をもったいなく過ごすことになるんです。

人間は毎日毎日、ちゃんと自分で体の調子を自分で整えられるようになっています。逆に、眠らないとどこかに必ず方がでる。食べなければ体力が減り心も弱くなるのと一緒で、睡眠はいわば精神安定剤的要素もあるんです。

寝る時間を削ってまで仕事をするって、本来はおかしいことです。それで心も体も壊してしまったら、もう何のために仕事をしているのかわからないですよね。寝ることは、怠けることではないんですよ。

5/24/2015

マカロン

上品なもの。
懐石料理。季節に合った着物。箸使いが上手い様。袖に手を添えるしぐさ。アフタヌーンティー。別れ際の「ごきげんよう」。気の利いた生け花。ヴァイオリンの音色。口数の少ない人。

下品なもの。
水回りが汚い家。大声。派手な色合いの髪の毛。きつい香水。汚れた靴。サプライズ。ひどく酔った様。大学生。呼吸の合わない相撲の立ち合い。ミニスカート。あげあし取り。夏の海水浴場。

似合うもの。
焼き物に和食。ハンバーガーにコーラ。モデルに社長。アメリカ人にTシャツと短パンとスニーカー。日本人にメガネとカメラ。あんぱんに牛乳。ご飯にみそ汁。お団子頭にマフラー。ハゲ頭にハンチング。

似合わないもの。
学生にプラダ。ケーキに緑茶。埼玉県に観光地。細身に着物。ダイコン脚にピンヒール。ハワイに人見知り。猫に野菜。ヘラクレスに内職。赤いたぬきと緑のきつね。

之にてご免。

5/23/2015

かるかん

家の本棚がいっぱいになってしまって、もう置くところがないからホームセンターに行ってきました。見てみると、種類豊富にそろえてあってどの部屋にも合いそうな、シンプルなデザインのものが並んでいました。サッと選んでさっと帰るつもりだったんだけれど、眺めているうちにあんまりある機会じゃないし、この際自分で作ってしまおうと思い立ち、大工さんからもらった材木の切れ端で作ることにしました。

きれいにもともとイメージにある本棚の寸法に合わせて材料を買ってくるのと違って、その廃材に合わせた作り方をしなきゃいけないから意外と面倒なんです。まあ、収めるものは本と決まっているから、その寸法に合わせてありものでこしらえる。ああでもないこうでもない、小さな失敗を繰り返しながらやっとの思いで完成しました。

ん~、なんだか味気ない。「棚ですが、なにか?」みたいにすましてる。そりゃあ棚ですから、当たり前なんですけれどね。
格好つかなかったなあとぼやきながら本を収めて見てみると、あら不思議、恰好ついてる。あゝなんで忘れていたんだろう、私が作ったのは本棚だったんでしたよね。

本棚は本が収まって初めて完成します。住宅も人が住んで初めて完成するし、スタジアムもお客さんや選手、演者が入って初めて完成です。それを知った一日でした。

絶対に間違うことはないんだろうけれど、東京オリンピックもちゃんと完成してほしいです。

5/22/2015

エクレア

『日本辺境論』という村上樹さんの著作がある。新書大賞にも輝いた作品だからご存知の方も多いと思います。これを読むと、あゝ本当に日本人は辺境人スピリットに満ち溢れた民族だなあとしみじみ思うのです。かくいう自分も生粋の辺境人。誇らしいのか恥ずかしいのか、まあ両方です。

日本人というのは、ずっと世界の中心は違うところにあると考えてきた。決して自分たちがいる場所ではなく、違うどこかにあると。だから今でも外国というだけで優れているという考えはあるし、答えを外に求めたがる。自分たちが中心になって何かやるというのが苦手な人々みたいです。そもそも自分たちが中心だというマインドがありませんからね。

古くは中国に多大なる影響を受け、欧州列強の文化に憧れをいだき、追いつけ追い越せでここまで来たわけです。気がついたらほとんどの、あこがれの対象だった(今もそうだけれど)国々を追い越してしまいました。これこそ辺境人の強みです。自分たちは優れていない(外の方が優れている)という思いがあるから勤勉ですし、よく働きます。

外国人に話しかけられると、ほとんどの人が第一声から英語で話してあげる。ほかの国ではそれほど頻繁に見られる光景ではありません。勤勉が故、あいさつ程度の英語力はほとんどの日本人が持っています。話せないというけれど、話せるんですね。なかなかやるんです。

自分たちが辺境人である、という思考を持っておくとすんなり理解できることがたくさんあります。日本人論の大好きな日本人には、必読の一冊です。是非一読あれ。

5/21/2015

みつまめ

キラキラネームと呼ばれる、ちょっと変わった名前を自分の子供に付ける親御さんが増えています。「希星」「緑輝」「泡姫」「七音」「振門体」どうでしょう、読めますか?

これは、前から順に、「キララ」「サファイア」「アリエル」「ドレミ」「フルモンティ」と読むそうです。市役所や病院なんかで聞いたら耳を疑ってしまいそうです。「泡姫」はつけられたくないなあ。「振門体」もコントの世界に感じてしまいます。

このキラキラネーム、今角界でも流行中で、様々なキラキラ四股名が存在します。
例えば「宇瑠虎」。これは「ウルトラ」と読みます。
続きましては「天空海」。これは「アクア」です。
そしてそして、「爆羅騎」と「羅王丸」。こちらは「バラキ」と「ラオウマル」。実はこの二人は兄弟で、さらにこの四股名、本名でもあるんです。

わたしは、「豪風」や「玉鷲」や「寺尾」のような江戸時代っぽい名前が好きなのですが、国際色豊かな今の大相撲、四股名の変化もまたこれはこれでありだと思うべきなのでしょうか。

それでは最後にキラキラ四股名クイズ。「桃智桜」「武玄大」「大露羅」「嵐望」
読めましたか?答えは自分で調べてね。

5/20/2015

ウエハース

「無駄」は便利な言葉です。あたかもそれらしく言えば、確かに割となんでも無駄なように思えますから。でも、「無駄」がいいんじゃないですか。「無駄」がその人を形作るんじゃないですか。

大体、遠回りせずに生きる方が無理な話なわけです。くねくね、あっちかなこっちかな、を繰り返してそれでもなおまだなにかありそうだ、ってのが面白いんですよ。
そして、そうやっていれば、行きつく先に行きつくものです。これだ!かもしれないし、こんな感じかな。かもしれない。それはその人次第。

行きつく先に一直線に行ける道なんてそもそもないんですから、あっちかなこっちかなで進むしかない。これが人によっては「無駄」と映るわけです。無駄だと思う人はどうするかというと、一直線の道のことを考える。それで、どうにも見つかんないからどうしたものかと思い悩んで動けなくなっちゃう。そりゃそうです。そんな道ないんですから。ない道のことを思い悩んだってしょうがありません。あったかな、と思ったら行ってみるしかないんです。

「無駄」を経て進んでいくことは面白い。そして、そのほとんどが実は「無駄」じゃないと気づくことはもっと面白い。

5/19/2015

ラムネ

「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命を懸けて守る。」これはヴォルテールの言葉です。今、これがちゃんとできる人が少ないと思います。自分の意見と違う人を、排除してしまう人が多いように思えます。

否定と排除は違います。そして、私はこの排除を日常的にすごく感じる。無言の排除とでも言いましょうか。
かなしいかな、自分の意見を言うこと自体に恐怖心を持っていて、自分の意見をズバズバといえる人を無言という壁で排除しちゃう。もちろんなりふり構わず自分の意見を主張することはただの傲慢です。相手がいることですから。でも、あまりにも意見を主張する人にやさしい雰囲気ではありません。

きっと変わることが怖いのでしょうね。意識しているかしていないかは分かりませんが、排除してしまう人たちは、自分のことをものすごくかわいがっているし過保護にしている。これの厄介なところが、見た目は他人に気を使っている風をしていることです。人間は賢いから、そういう人がたくさん集まれば、話さずともこの“気を使っている風”ができる。みんな本当は自分を守っているだけなのだけれど。

書きながら思い出したんだけれど、きっとそういう人は、主張できる意見を持ち合わせていないのかもしれませんね。思考停止しているのかもしれません。

排除ではなく、まず考えて、自分の意見を述べましょう。人間、思考停止したらおしまいですよ。

5/18/2015

ごまだんご

人間は世の中をもっと便利に、もっと過ごしやすくするために、あくせく働き知恵をこらしてこの世の中を作ったわけです。具体的に何を作ったかというと、より便利な「手段」を作ってきたんです。人間の進化の歴史とは、手段の進化の歴史でもあります。
 
一からやると、まずは火ですよね。外敵から身を守るため、食料を調理して長持ちさせるため、暖をとるため、それぞれの手段として生まれたわけです。
そのあと、外敵と戦うため獲物をしとめるために武器が生まれます。それから、物流を簡単にするためにお金が生まれます。時代が進み、より移動を楽にするために馬車や船が生まれ、後世にこの歴史を伝えるために本が生まれました。
 
時代が下っても、手段の進化は止まりません。印刷技術が発明されたり、電気や電波が生まれ(発見され)たり、機関車、飛行機、車が発明されたり、上げ始めればきりがありませんね。なんでもすべて元は手段だったんです。
 
福沢諭吉は著書『学問のすすめ』のなかで、「読書は学問をなすの術なり、学問はことをなすの術なり。」という言葉を記しています。私も読書をする人間ですから、この言葉を読んで、改めて「手段」であることを認識するのでした。案外見落としやすい「手段」と「目的」の違い。ちゃんと知っておくことは大切です。
 
あ、言葉も手段だってことも、忘れてはいけませんね。

5/17/2015

すあま

先日回転寿司に行ったとき、奇妙な感覚に襲われました。今まで何度も回転寿司には行っていましたし、その感覚を抱くことはなかったのですが、先日行ったときには、襲われたんです。急で驚きました。

普段通り、ひかりものと貝類しか食べずに満腹になり、お茶を飲んで一息つきました。その時ふと思ったのです。「異常だ」って。

皿にのった寿司(シャリの上にネタが乗ったもの)が行儀よくベルトコンベアに乗って運ばれ、私たちの前を通過していきます。私たちはその中から食べたいものを選択して自らの腹を満たすわけです。好まなければ見向きもしない。
なんという圧倒的強者ぶりでしょうか。流れていく寿司が、なんだか見世物にされているもののようにも見えたし、回転寿司店が、ある種の風俗店のようにも感じられたわけです。

飽食の時代を謳歌する現代を象徴するような光景かもしれません。でもこれは回転寿司に限ったことではなく、他の飲食店でも同じことなわけですが、どうもあのシステムが特別私の心にグサッとくる何かがあったのでしょう。
それまでは当たり前のように、何気なく食べていたわけですからもう本当に恐ろしい思いがします。

今後も回転寿司に行くことがあるかもしれませんが、この感覚はずっとついてまわるんだろうなあ。

5/16/2015

杏仁豆腐

ミュージシャンやお笑いコンビ、スポーツチームのファンの間で一番仲良くやらないは、同じグループ、同じコンビ、同じチームを応援するファンの間だったりします。嫌いと言われない限りは、そんなに外とうまくいかないことはないんです。
 
最近話題となった「カープ女子」がそうで、これは広島カープ内部での問題ですよね。
大きく分けると、「あんな恰好だけのにわかみたいなファンは本当のファンじゃない」と、「新しいファンが増えて人気が出たんだからいいじゃない」というような感じです。わたしも、フットボールチームですが応援するチームを持っている人間ですので、どちらの言い分もわかります。でもね、よく考えてみてください。
 
私もそうだけれど、応援している人っていうのはみんな同じで、そのチームを何かのきっかけで好きになって応援し始める瞬間があります。その時に、中の人で「お前はにわかだろ。本当に好きなのか?」というようなことを言う人がいる。「おれは私はおまえよりも前からこのチームが好きで、ずっと応援している。にわかは来るな。」なんて言っちゃう。あなたにも最初があったはずなのに。

いつから好きだったかなんて、さして重要なことではありません。それに、どっちが好きかなんていうのもなんだかおかしな競い合いです。そんなことはよして、みんなで応援しましょうよ。チームにとってはそれが一番いいんですから。

5/15/2015

あんず飴

ニュースは、人の心を動かすもの、話題になりやすいもの、そんなものが取り上げられます。だいたいが、悪い方向に向かったものや、悪そのもののようなものです。テレビのニュースを見ていると、「なんでこんなに人が殺されなきゃいけないの。もうこの国もお先真っ暗じゃない。」なんて思ってしまったりすることもありますよね。事実の分もあるんだけれど。いつからこうなったのかなあ。

報道とかっていうのは、悪いことばかりを伝えなきゃいけないなんて決まりはありません。もちろんジャーナリズムの基本として、権力を見張るっていうことがある。これはだいじです。でも、ジャーナル(Journal)っていうのは「日々のこと」です。つまり「日常」です。

比率は少ないけれど、NHKやたまにワイドショーでも「芝桜が見ごろです。」「〇〇県の✕✕町でイワナのつかみ取り大会が開かれました。」というのがやっています。これだって立派なニュースです。「田植えの季節になりました、△△村では村を挙げての大仕事、これが終わると豊作を祈るお祭りが催されます。今年は土の状態もよく村の人々はご機嫌で祭りも大いに盛り上がりました。」これはあくまで例えですけれど、いいニュースだと思いません?
さらにいえば「今日は何ない一日でした。ごきげんよう。」だってニュースです。素晴らしいじゃありませんか。

今の“ニュース”の性質を理解して、自分なりに消化する。むやみに影響されず、日々のくらしを見つめる。
「いい天気だったなあ」とか言って終わる一日はとってもありがたいことなんですよね。

5/14/2015

アップルパイ

「友達以上恋人未満」は面白い。中学生からギリギリ高校生くらいまで使われる言葉だけれど、そのほかの年代ではまた意味が違ってきますからね。

この言葉が最も使われる中学高校生年代では「友達以上恋人未満」なんて言われた日には、「あーあ、それをいわれちゃおしまいよ。」ってな具合で、少し大きめの擦り傷を心に負ったものですよね。

性フェロモンの巣窟(大学ともいう)から20代後半まで(私自身が20代前半なので、それより上の年代に関してはあくまで想像の域を脱しませんが)になると、「友達以上恋人未満」はピンクの係り員。言われないけれど仮にそう言われたら、まるでネコ科の夜行性肉食動物になった気分です。

未婚の30代から40代の「友達以上恋人未満」は、怖い。急に恋人さえも飛び越えてこようとする人もいるでしょうし、自分よりも一回りくらい下の人を上手にひっかけちゃう人だっているでしょう。一番脂がのっている時期だから、魅力もあります。それに先のことも考えているから、相手を捕まえることに関しても人一倍真剣です。

既婚者にとっては、基本的に「友達以上恋人未満」なんてないはずです。あるんだったら友達か恋人のどちらかでしょう。結婚している人となにかあったりするんだもの、相手だってそれなりの覚悟をもって接しているんだと思います。

50代以上になると、ちょっと想像できません。「友達以上恋人未満」って言葉自体が消滅しちゃうのかな。

面白いとかなんとか言っているんですが。実のわたしは「友達以上恋人未満」が一番グサッと来ちゃう。なんかこう、冷酷な距離――どうやったって埋められない深い溝と言いましょうか、どうにも塞ぎようのない鋭い裂け目と言いましょうか――を感じます。
あれ、中学生の時抱いた感想が「友達以上恋人未満」の神髄だったのかな。

5/13/2015

もなか

収集欲とか、コレクション欲っていうものがある。女性にはあまり聞かれないけれど、大多数の男性が持っている欲で、生きていく上で割合重要でないものを集めたくなる、揃えたくなる欲のことです。

不思議なんだけれど、全然生活に必要ないものほど集めたくなってしまうみたいで、おもちゃ、フィギュア、ミュージシャンやスポーツチームのグッズなどなどが欲しくなったりします。どうしてでしょう。これはある程度生活が豊かな地域、食いっぱぐれることのほとんどない世の中特有の欲なんでしょうか。

男性で(女性の中にもいるだろうけれど)女性(男性)の経験人数を自慢する人がいます。それだけで自信がみなぎっちゃってる。誤解を恐れずに言うと、これもなんだか収集欲に当てはまる気がするんです。当てはまるというよりむしろ、収集欲の根源的な部分はここからきているのかもしれませんよ。たくさん子孫を残せるオスは強いオスですから、この数は一種の強さの象徴だったりするわけです。何とも原始的だけれども。
そう考えれば、広く世界中に存在する欲と考えて良さそうです。

当の私の収集欲はといえば、民族音楽のCD、本、くらいかしらん。どうです、品がいいでしょう?

スイートポテト

形から入るっていいんです。ジェントルマンになりたいと思ったら、一切の洋服を捨てて、シャツジャケットパンツ靴ネクタイコート、一式すべてをオーダーで作る。だとか、スペイン語をしゃべれるようになりたいと思ったら、スペインに行ってしまう。だとか。これだけでもう気が引き締まっちゃう。これ意外と使えるんです。

「形から入る」には、環境を変えるってことも含まれています。上記のスペイン語の例もそうだし、冬はいつもこたつで寝てしまから、ちゃんと布団で寝るようにしたい。なんていうのも、こたつを売ってしまえばしい。寝る場所がなくなれば、自然と布団で寝る習慣がついてくる可能性は高い。これも「環境を変える」ですよね。

住まいを構えるところは本当に大切で、その人の生活拠点になる。その環境がその人を作り育てるんです。
森、土、花、虫、自然と会話する場所が少なくなった首都圏の街並みを見て、子供たちの成長に思いをはせます。

幼いころの体験はその人の基盤を作り、人間性を豊かにします。みなが影響し合って共存している森の姿に、肌で触れる体験はかけがえのないものです。自分もその一部なんだと、自然に出会い心に感じます。
共存の形、まずは形からでも。

5/12/2015

あんみつ

学校教育で必須になったダンスっていうのがありますけど、未だによくわかりません。思春期の少年少女には地獄のような時間ですよね。それはまあいいとして、そもそも「はい、踊ってください!」ってこと自体がまちがっていないかなあ。

わたしは基本的に歌うことも踊ることも好きな人間です。いや、歌うことや踊ることが嫌いな人間っていないんじゃないかしらん。文字を持たない民族にも音楽はあるし、服を着ない民族にも音楽はあるもんね。
子どもを見ていればわかることだけれど、嬉しければ手をたたくし、ご機嫌な音楽がかかれば踊りだすものです。要するに、ダンスっていうのは自然発生するものなんです。そういう意味では感情表現の一つとも言えるかもしれません。だから、どういう目的でダンスを必須科目に組み込んだのかにもよりますが、ご機嫌じゃないのにダンスなんてできたものじゃないし、なんだかそれってもうダンスでもないような気がするんです。

言葉なんかもそうですけど、本来は気持ちが先行するものです。気持ちがあって言葉になる。気持ちがあって踊りだす。伝えようとする必要なんてなくって(言葉の場合、それは大切だけれど)ただご機嫌だから踊る、どうしようもなく言いたいから言葉にする。そんなものだと思うんです。先立つものは気持ちなんです。

今気が付いたんですけれど、実の狙いは逆なのかな。いやいや、それならダンスじゃなくていいものね。

5/10/2015

ショートケーキ

「根岸の里の侘び住まい」なんて文句がありますね。これは、頭に季語を持ってくればそれらしい俳句ができるという便利な文句です。「新緑と根岸の里の侘び住まい」「つつじ咲く根岸の里の侘び住まい」ほら、簡単でしょう。

これは、一種の“型”です。型というのは入り口であり基本であり拠点です。何をやるにしても、これを知ることは絶対に避けて通ることはできません。反対に、みんな通ってる道なんです。

少し意地汚い見方かもしれないけれど、「型にはまらない人」だとか「型破りな人」っていう人たちもみんな通ってる。だって、はまったり破ったりする“型”がないとこういう言われ方はしないものね。

型があって、それにきれいにはまる人もいるし、破っちゃう人もいる。でも、はまれる型も破れる型もそんなに大したものじゃないんです。型って少し変わったマトリョーシカみたいになっていて、小さいのを破ったと思ってもそこはまた別の型の中で、それを包むもう少し大きな方の中にお互い入ってる。だから型破りって実は大して型破りじゃない。

それを私は、型を破ろう破ろうと行動して気が付いたんですけどね。

栗ようかん

4Kテレビが売り出されて、普及し始めています。日本ではまだまだ4Kでテレビを見る機会がすくないけれど、これからもっともっと進化した解像度の高いテレビや放送が普及していくんでしょうね。なんだか他人事みたいだけれど。

一方の私はといえば、写真はほとんど撮りません。観光に行っても撮らないから、友人や家族に怒られてしまう。それくらいとらないんです。なぜ撮らないかというと、「ああ、これは直接見に来ないと伝わらないな。」とあきらめてしまう。その場の空気、雰囲気、質感、歴史、なんかはもう伝えようがない、と思ってしまいます。それと、どうしても写真の場合、その場所の断片だけを切り取らざるを得ない。全体が関係しあっていてそれが存在するのに、それだけをとらえても仕方がないと思っていました。

しかし最近、写真を見る人はそれを楽しんでいるのかもしれない、と気が付いたのです。断片だから面白い。欠けているから魅力的。映画『ローマの休日』を初めて見たときのことを思い出しました。この作品はモノクロ映画なのですが、私の記憶にはやけに鮮やかな映像が残っています。主演のオードリー・ヘップバーンの着ていた洋服も、彼女の髪の毛も肌も目も、美しくきらめいています。これは、白黒だから、私に想像する余地を与えてくれているから、鮮やかなんだと思うんです。

なんでもすべてわかりやすくする必要はありません。完璧な人が魅力的でない様に、完璧なものもきっと魅力的でないんだと思います。それぞれ何かが欠けているから面白いんです。余地があるから楽しいんです。

5/08/2015

こんぺいとう

私は鯖寿司に目がない。もともと酢飯好きで、魚もひかりものばかり食べるので、もうまさにど真ん中ストライクな料理です。押し寿司独特の、酢で〆た魚と、ちょうどよく固められた酢飯のバランスが私にはピッタリ合います。鯖が痛みやすい魚だったこと、それをどうにか内陸で寿司として食べようと努力したご先祖さんたちに感謝します。

鯖寿司も長持ちさせる工夫を施しているという見方をすれば、一応保存食の一種です。元々食料の貧しかった日本では、独自に発達した保存食がたくさんあります。その中でも、日本人は発酵食品にかけては達人中の達人。

漬物だけでも数えきれないほどの種類がありますし、鰹節なんかもそうです。特に多いのが納豆、しょうゆ、みそをはじめとした大豆関連の発酵食品ですね。日本人の身体は大豆でできています。

お豆腐の入った味噌汁に、納豆、湯葉をしょうゆにつけて食べ、卯の花が添えられる。食後のいっぱいのおつまみは枝豆で、甘味にはきな粉をまぶす。
これは全部大豆です。私たちは知らずしらずご丁寧に大豆ばかり贔屓しているんですね。生粋の大豆食い民族です。

肉食を減らし、大豆中心、魚も適度にとる。やってみると分かりますが、体の調子が全然違います。お腹がすっきりして内臓がイキイキしている感じ。ダイエットもいいですが、正しく食べて、正しい身体に治しましょう。ソイライフのスタートです。

5/07/2015

どら焼き

忍耐力って字を見ると、気が遠くなっちゃう。耐え忍ぶ力ですもの。雨にも負けず、風にも負けず、コツコツやる。自分にできるかな、やらなきゃならないんですけどね。
 
でもね、忍耐力っていうのは言い換えると続ける力ってことなんです。継続力ってことでもある。だから、なんだかなにも続けてしたことないやあ、なんてぼやく人も大丈夫、そういう人でも何年も生き続けているんですから。基本的に続ける力は持っています。
 
今のは半分本気で冗談として、どうすれば続けられるかという問題です。一番は、好きになるってことです。これはもう間違いない。好きなことで、例えば一日中図鑑と格闘して、全国這いずりまわって資料を見つけてきて、やっとの思いで論文を1,2ページ書く。傍から見れば「すごいですねえ」なんだけど、当の本人はイキイキしてる。好きなことをしている人は、ほかの人が見れば努力しているように見えるところも、本人は楽しいからやってる、全然努力だなんて意識してない。だから続くんです。
 
子どもの頃、誰しもが夢中になってやっていたことがあるはずです。“好き”をやると続くんです。身体は疲れるけれど、心は全然疲れない。心が疲れないと、ある程度身体ってついてくるものです。
一流企業もいいけれど、まずは自分の“好き”を見つけてみてはどうですか?

5/06/2015

シュークリーム

シンコペーションって聞いたことあるでしょうか。これは音楽用語なんですが、すごく簡単に説明すると、楽譜にいるオタマジャクシの位置を、少し前にずらしたり少し後ろにずらしたりすることです。こうすることで、リズムにグルーヴ感が生まれ、踊りだしたくなるような音楽が生まれます。ラグタイムピアノなんていうのがそうですね。

ちょっとだけずれているっていうのは楽しいことなのかもしれませんね。でもこれはあくまでちょっとじゃないといけない。大きくずれちゃうと、音楽そのものが崩れて成立さえしなくなってしまいますから。あくまでちょっとずれているのがいい。

なんでも正確に、いつも同じように、これはこう、あれはああ、それはそう、でやっていくのは大切です。でもどこか面白くは無かったりする。“グルーヴ感”はありませんよね。そこでちょっとだけずらしてみる。遊び心を入れると、なんだかいつもとちがう心地がしてきます。気持ち良かったりします。

でも、ベースがあるからちょっとずらせるんです。ちょっとずらすそのもとがないと、そもそもずらせませんもの。そのベースに気が付けるか。みんなベースはすでにあるんだと思いますから、それを見つけられて遊び心を持てるか。シンコペーションできるか。踊りだしたくなるような旋律を奏でられるか。

5/05/2015

柏餅

松に鶴、竹に雀、梅に鶯。他にも、紅葉に鹿、牡丹に唐獅子、柳に燕、なんていうこともあります。よく似合って調和する二つのもの、仲の良い間柄の例えとして使われる言葉です。これらを想像して美しいと感じるとき、日本人でよかったなと感じます。

どうも私は金色だとか、朱色だとか、鮮やかで豪華絢爛といった感じのものや姿にあまり美しさを感じません。金閣寺より銀閣寺の方が好きだし、日光東照宮には、毎回、今度こそいいと思えるんじゃないかと思っていくのですが、そのたびに心にしみいる美しさを感じることができないのです。

花も、ゴツゴツとした樹にあふれんばかりに咲き乱れる桜よりも、心もとなくか弱い枝で、冬の寒さを耐え忍びポツリと咲く梅の方が好きです。

料理にしても、なんでも塩と胡椒、ケチャップにチーズでどうにかしてしまうハンバーガーなんかより、ほんのりかおる鰹と昆布のダシに、なめらかな舌触りの豆腐と採れたてのミョウガを、さりげなく味が口に広がるくらいに溶いた味噌でしあげた味噌汁の方が、心も身体も喜びます。

5/04/2015

ビスケット

テストに向けて毎日5時間勉強しました。受験に向けて毎日10時間勉強しました。よく聞きますよね。これはエライことなのかなあ。

目的はテストや受験の方なんだけど、毎日5時間勉強すること、毎日10時間勉強することが目的になっちゃっている人がたくさんいた気がします。やらないよりはずっといいと思うけど。1時間勉強して80点獲った人と、5時間勉強して80点獲った人だと、たぶん後者の方がありがたがられるんですよね。よく頑張ったとか、努力の成果だとか言って。仕事だったら絶対に前者が褒められますよね。面白い仕組みです。

これはお金にも似たところがあって、1000万円を1年で稼いだ人よりも、5年で稼いだ人の方がありがたかられる。なぜか成金ってイメージいいとは言えませんからね。でもここはそんなに大切じゃなくて、一番大切なのは、そのお金を何に使ったかということです。そこが最も大切で最も評価されるべきです。テストと同じ、“目的”ですから。1000万円持ってるっていう状態がみんなすごく好きで、すごくありがたがれる。目的がずれちゃってるんです。忘れられがちだけど、お金はなにかと交換するための信用ある紙切れのことです。手段なんですね。

「お金が欲しい」と嘆く人に、何に使うのか聞いてみてください。すぐにしっかり答えられる人はそう多くないと思いますよ。

5/03/2015

おせんべい

地図を見て目的地まで行ったり、説明書通りにものを組み立てたりすることはできるんだけど、一から何かを作るとなるとどうも私は苦手らしい。

本棚を廃材で作ろうかなと思ってやってみても、ミサンガを編んでみようかなと思っても、たいがい一度目は失敗する。大きさがおかしかったり、よれよれだったり、作ってみて(作りながら)ああ、失敗した、もう少しこうするんだった、なんてつぶやきながらやっているんです。
こういうことを最初からできる人もいて、そういう人にどういうことなのか話を聞くと、「外しちゃいけない要の部分がある。それさえ外さなければ、大きく間違うことはないよ。」と教えてくれた。どこが大事なのか見抜く目を持っているなんてすごいなあ、と他人事みたいに感心したことを覚えています。

今思っていることは、大事な部分、肝心要の部分を見抜くことって最初は難しいから訓練が必要だってこと。だから、最初からできていたように見えていた人も、実は自分が意識するにしろしないにしろ、ちゃんと訓練していたってこと。本質を見抜く力も同じで、普段から訓練しなくちゃいけないんです。
そして一番のいい訓練は、自分で一から何かを作ることなのかもしれませんね。構造を知るって大切なことです。

5/02/2015

ラスク

つい最近気が付いたんです、自分はナルシストかもなって。
こういうことを言うのは好きじゃないんです。なんだか気持ち悪いんですよね。

この気持ち悪さがどこから来るかというと、「こういうことを言うと周りの人に自分はどんな風にみられるんだろう」というところから来るわけです。ナルシストって思われるのは嫌だな、だとか、ナルシストって思われてもまあいいか、だとかふわふわ思うわけです。どういうわけか、この思考がそもそもナルシスト的思考だということに気が付いたのです。

“嫌だな”も“まあいいか”も、周りの人から自分がどう見えるのか、という観点から考えないと出てこない思考です。つまり、「自分のことをこんな風に見てほしいな」「自分はこういう立ち位置でいたいな」っていう思考は、あたかも他人に合わせているように見せかけた、自己中心的なただのうぬぼれなんですね。

“優しい”だとか“素敵”だとか“面白い”だとかは、周りの人が決めることです。私の価値は、私じゃなくて周りの人たちが決めるんです。当たり前のことなんだけど、この手順でちゃんと考えている人ってそう多くないんじゃないかな。

5/01/2015

笹だんご

クラシック音楽が好きで、よく聴くんです。昨日はYouTubeでたまたま見つけた、辻井伸行さん演奏のFranz LisztのLa Campanellaを映像も見ながら聴いていました。

これは辻井さんがイギリス最大の音楽祭「プロムス」に出演した際に演奏したものだったんですが、素人の私が見て聴いても感じるくらい素晴らしい演奏でした。現地で聴いていた人たちはしびれたんだろうなあ。

本当のプロというのは、みんななにか人間的な魅力というようなものを醸し出している気がします。それは素人の人にも伝わる。むしろ素人の方がそういうものを感じ取れたりするんじゃないかな。技術があるだけがプロじゃない、っていうのはそのあたりのことを言っているんだろう。ピアノで言えば、音色にその人柄が出る、と言いましょうか、愛情が出る、と言いましょうか。

本当のプロには関係ないんだよね、他人がどうとかああとか。だいたいその他人っていう側に本当のプロが置き換えられることが多い。
本当のプロを見たり会ったりすることで得られるものってたくさんあると思うんです。
そのためには、たくさんの人に会って、たくさんの現場に行かないと始まらないんですよね。